2020年09月20日

西洋という奇妙な社会の起源とその帰結

Joseph Henrich, The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous

The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous (English Edition) - Henrich, Joseph
The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous (English Edition) - Henrich, Joseph

脳科学や心理学の対象となるのはほとんど西洋の学生だ。でもこのサンプルは人類全体からすると非常に偏っている。この特異性がなぜどのように生じたかを分析するのが本書の目的だ。識字率の向上は経済が発展したからでも政治制度が変化したからでも産業が勃興したからでもなかった。神と個人が向き合うべきとしたプロテスタンティズムが聖書を万人向けに配ったからだ。実際、ルターの出生地に近いほどプロテスタンティズムが盛んで識字率も高くなっている。プロテスタンティズムは女子の識字能力を上げた。識字能力が向上した結果脳に変化が起き、記憶や視覚や顔認証や計算能力や問題解決といった領域に影響が起きた。また家族の大きさや子どもの健康や認知能力の発達にも影響しただろう。
何者かを問われた際に個人の性格や業績を社会での役割や関係より優先して答えるのは西洋の心理に特徴的だ。血族社会で暮らしていると団結をはかり老人や賢者など権威に従い近い親族を監視し集団内外を区別し集団としての成功を重視するだろう。逸脱を避けるために新しい知り合いは求めず古い知り合いを重視するだろう。個人主義の社会では良い関係を探して個人の才能を重視するようになりそのような似た者同士で集まるだろう。自尊心を問題にするのが西洋で面子を重視するのがその他の社会だ。行動を個人の特性と考えがちなのも西洋の特徴だ。このため認知的不協和と帰属の誤謬により苦しんでいる。個人主義では罪の意識を抱くがその逆なら恥の意識を抱く。恥は公的なもので社会に課せられた基準を満たせない場合に生じ、他人のことを自分のように感じることからも来ている。恥の文化では人々は集団内で監視されており自分の役割を果たすよう望まれ、自分では何もしていなくても恥を経験することがある。罪は内的な感情で完全に自律的なものだ。これは個人主義的な社会で自分の特性と才能を伸ばすために自分が課す基準として働いている。自制する社会ほど経済成長する。非人格的な向社交性を持つのがWEIRD社会の特徴であり、公平性や誠実性や見知らぬ相手への協調や政府といった抽象的な存在を重視するようになる。悪事が故意に犯された場合重く罰するのが個人主義社会である。血族社会だと個人の責任は分散される。分析的で全体を気にしない、木を見て森を見ずなのが個人主義社会だ。また自分の所有物を重視してしまう。
ヒトは進化して文化を学習できる能力を身につけた。誰から何を学ぶか自分ではなく他人の経験から学んだ方がいいのがいつなのかを決めるのは文化だ。そして文化は脳神経を変化させた。この流れを累積的文化進化と呼ぼう。文化は個人より賢く、例えば伝統的な毒がなぜ強力なのかは誰もわからないだろう。盗みや食物共有など社会規範は共同体を円滑に運営するよう発達しこれを破ると手酷く扱われる。血族社会だと血縁への利他主義が発達した。また婚姻に関する規範も生じた。その多くには父親が誰であるか明確にする効果がある。また誰と子をもうけるかのタブーも近親相姦への嫌悪感として心理に埋め込んだ。他人と調和し同じ目標に向かい音楽を聴くという部族の儀式は相互の関係を強めるために働いている。規範を逸脱する者を強く罰するような心理が発達し規範は人の相互の関係を強めた。集団間競争は文化の進化を生み心理的な制度を作り出したのだ。
集団が巨大化するときはそれまでの慣習を受け継ぎさらに強化するものだ。ニューギニアの多くの部族は300人程度だが例外的に2500人以上いるイラヒタという共同体がある。2分割が5回なされる儀式集団に分かれており、子どもたちは違う儀式集団に認められることで大人になる。5つの通過儀礼では友とともに恐怖を体験するものなど絆を強化する役割を果たしている。宗教のタンバランには村レベルの神がおり儀式に従うよう促している。これは意図的に作られたものではなく、かつて存在したアベラムという部族のシステムを真似てできたものだ。兄弟を同じ集団に入れないことや祖先の神の名をつけないなど誤差が生じそれが偶々共同体を巨大化する方向に導いたのだ。絶え間ない戦争や略奪は協調を促す制度を作り、より繁栄した共同体に移住が起き、より反映した共同体の制度は真似され、上手く協調するところだけが生き残り、子孫が増えていく。ペルーのマチゲンガ族は非常に個人主義的な集団で核家族で暮らしており心理もそうなっている。これはインカやスペインの奴隷として襲撃されてきた歴史のためだ。離れて少人数で暮らすことで襲撃の利益を少なくとどめてきた。どのような制度が成り立つかは環境と歴史によるのだ。気候変動でより植物が生産的になると農業が可能となった。農地と家畜を守るには大きな社会が必要でありそれを形成できる制度がある場合は狩猟社会との競争に打ち勝ち発展することができた。父系社会か母系社会の単系の血縁関係を形成する集団を氏族と呼ぼう。これは父系と母系の両方で集団を形成する場合より利益の相反を減らせる。規範は多くの場合、結婚後にどう住むか、相続と所有はどうなるか、誰が誰を守るか、近親婚の禁止、政略結婚、命令系統、宗教儀式について明確化している。家族が集団を形成し、さらにそのいとこ同士で集団を形成し、さらにその…といった具合で形成される社会が分節血統社会(segmentary lineage)でこれは儀式や社会規範を共有している。家族がいとこに殺られたらその兄弟が報復し、いとこがはとこに殺られたらいとこ同士で連帯して報復しというのがこの社会の特徴だ。報復は個人の名誉と評判となりこれを失うと結婚できなくなる。これはアフリカ中に広まっており暴力が蔓延している。スコットランド系住民の多い米国南部も同じように名誉殺人が多い。イスラム系テロリズムと呼ばれているのはこの報復システムではないかという話もある。また、同年代を集める制度も多くの人を集めることができる。これは通過儀礼により同年代のまとまりを作り、上の年代からの指令のもと防衛や略奪に参加し、次第に村の指導者となるというものだ。これらは部族や氏族を超えて人の集団を作れるが、中央集権で安定して上下関係の明確な制度を欠くためそこまで大きくはなれない。儀式上の力を盗んで巨大化する例もある。ある氏族がどの氏族よりも強くなる首長制は戦争において氏族間の協調を促し公共財を提供することができさらなる拡大が可能となる。そして社会に階層が生まれエリートが大衆と婚姻しなくなると王国となる。近代以前にはこれはまだ血縁関係による繋がりの側面が強かった。
独裁者ゲームの前に宗教的な単語を連想させると他人への分け前が増す。この効果は信者にだけあり無神論者にはない。警察や法廷などを連想させるとどちらにも効果がある。他人と協調したり公共財を供給したりといった手間のかかることを個人にさせる力があるのが宗教だ。信仰の本能とでもいうべき心理的状況は文化の学習に必要だ。また学習のために他者の心を想像する能力までできたが、これは現実に存在しないものの心も想像することに繋がった。そして心身二元論に結びついた。初期の神は弱く気まぐれで道徳には立ち入らなかったが、集団間競争の結果戦争での自己犠牲や調和を促し不貞や犯罪を減らすような神が生き残った。唯一神は人を道徳的に振る舞わせるけど地元神はそうではない。メソポタミアの神々は人のようであった。ギリシャやローマの神々は道徳を司っていた。そして、人生で善行を積むと死後の世界で救済されること、信者の自由意志、誰にでも適応されることを特徴とする普遍宗教が生まれた。教義に重きが置かれ、殉教や身体改造や食のタブーや家畜の生贄など信仰を試すようなものが発展した。
WEIRD社会の特徴は父母両方の家系を辿れること、いとこ婚がないこと、単婚、核家族、子が親と離れ新しく住居を構えることだ。世界の多くの地域ではいとこ婚があることなどかなり特殊な形態である。しかしキリスト教布教までは西洋は血族社会で父系相続で政略結婚で複婚の社会だった。夫や妻の死亡時に義理の兄弟姉妹と婚姻する習慣は血族の繋がりを強めていた。しかしキリスト教はいとこ婚と複婚と兄弟嫁との婚姻を禁じ相続の非正統性という概念を普及させた。これは長い時間がかかった。近親婚を犯したものは破門され村八分にされた。キリスト教は近親婚が神の怒りに触れると信じていた。養子も複婚も再婚も禁じられると家系は絶える。血族社会では土地相続は個人の自由には委ねられていなかった。しかしキリスト教は富者が貧者のために教会を通じて寄付をすると天国に行けると説き、信仰の厚さを示そうという人が続いた。個人の所有と意思が強まり血族の繋がりは弱まり教会は多くの土地を蓄えた。そしてカロリング朝とイングランドでは荘園制が発達した。これは多くの小作農が領主と契約しその土地で働き、その子の世代は親を継ぐか他の領主と契約し新しく世帯を構えるというものだ。世界的にはある氏族が特定の土地を所有するという形が一般的でありこれは特殊。中世から近世初期になると、単婚核家族かつ子世代で新居を構え、晩婚で、生涯独身の女性もおり、少人数家族で出生率が低く結婚前にも労働しているという社会が生まれた。
この社会が与えたヒトの心理への影響を見るため、いとこ婚の有無や核家族かどうかや相続の系統や新居や単婚かどうかで構成する血族社会の度合いKIIをまず作る。遺伝的相関が高いほどこの度合いは実際に高い。KIIが高いほど調和を重視する。またKIIが高いかいとこ婚の度合いが高いほど伝統と従順さを重視する。KIIが高いほど恥の意識を形成する。血族社会であるほど罪より恥についてググる。KIIが高いと個人主義の度合いは低い。KIIが低いほど見知らぬ人に優しい。KIIが高いほど普遍主義ではなく身内贔屓になる。見知らぬ人との公共財ゲームは西洋の大学でやるとヒトが協調することを示すが、KIIが低い国でやるとそうはならない。また献血もKIIが高い国では少ない。KIIが高いと不正直に振る舞う。罰には2つの仕組みがあり、1つは集団の評判を保つため身内を裁いたり復讐したりするもの、もう1つは第三者による規範の執行だ。KIIが高いと前者になる。KIIが低いと道徳の判断に行動の意図を重視し分析的な思考になる。ある国が教会からの影響に晒されているほど血族社会ではなくなる。自己責任や自由意志を重視する心理状態に変化した起源は教会にあるのだ。
ヨーロッパ内部で比較しても教会の影響下にあるほどWEIRDな心理になりいとこ婚は減る。いとこ婚が多いほど組織犯罪は多い。KIIの高い国からの移民の子はあまり個人主義的ではなくもとの国の文化を受け継いでいる。中国でコメを栽培する地域では氏族の強力な繋がりにより農業を行なっていた。このためそのような地域では内輪贔屓が強く個人主義的ではなく分析思考ではなく全体思考となっている。インドでも同様。氏族の繋がりを強める制度は様々である。
狩猟民族でも農耕民族でも多くは複婚だ。男は嫁が多いほど子が増える。中央集権になるほど有力な男が女を独り占めするというのがよくみられる。しかし複婚の社会では多くの男は嫁がおらず失うものがないため暴力的になる。また既婚男も嫁に投資するより新しく嫁を見つけた方が良い。単婚の鳥は配偶者を見つけた後はテストステロンが下がり育児に参加するが複婚の鳥はテストステロンは高いままで雌を探し続ける。テストステロンは挑戦や復讐や他人への信頼やチームワークへの能力や金銭的リスク管理に影響する。これが高いと凶暴になる。男は男が多いと我慢強さがなくなる。独身者は凶暴だが結婚すると犯罪に走らなくなる。一人っ子政策の影響で男子過多な中国は犯罪率が上がっている。成長期に平等な家庭で育ったら平等な制度で働きたくなるだろう。
最後通牒ゲームをWEIRD社会でやると半々に分ける結果になるが、市場に統合されていない社会でやるとずっと他人への分け前は減る。これは独裁者ゲームでも第三者による処罰ゲームでも同様。人を信頼し公平に扱い見知らぬ人とも協調するべしという規範が市場にはある。この規範を守るほど評判が高まり客や仕事仲間や労働者が集まるものだ。この規範があることでお互いに得となる取引に応じられる。競争はあるが公平で正直に振る舞うものが称えられる。これは縁故主義の反対である。市場に統合されていると向社会的になるのだ。そして自発的な組織を作り文書にした規則による制度をなすようになる。売り手と買い手の属人的な関係による取引は歴史的に多い。沈黙交易は内容が制限されているが世界中で観察される。教会により血縁による仲買が妨害されたため市場規範が発達した。西洋の都市は個人主義的な人が集まる場所だった。血族社会を弱めるような決まりごとが多く作成され住民間の秩序が保たれ繁栄し、自治がなされた。競争があり、繁栄する都市の規範や法や制度はその他の都市でも真似された。教会の影響下にあった都市ほど早く成長しより市民参加型の統治となった。市場統合が進み、公平と正直さを旨とする商法が次第に発達した。市場規範の拡散には自発的な組織間の競争の影響があった。学者や法律家を養成する大学はそのような組織の一つであり地元の経済成長を促していた。
戦争が与える心理的影響は大きい。シエラレオネで共有ゲームを実験すると戦争の影響が大きかった人ほど身内に対してのみ平等な分け前を与えるようになる。また独裁者ゲームでも同様の身内のチームメイト贔屓の傾向がある。またより積極的に政治や市民活動に参加する。これは戦争が人々の繋がりの重要性を想起しまた規範意識を強めるからだ。そして人は互助網を作り共通の決まりをもち不安を和らげる宗教へと向かう。災害や戦争を経験するとこれが起きる。欧州は戦乱の歴史だ。軍事的政治的に有効な国家でなくては滅亡していただろう。戦争は新しい自発的な社会集団の形成を促し、非属人的な規範を発達させ、宗教性を強めた。一方血族社会では、例えば中国では戦争は血縁関係を強めるだけで参加型の議会は発展せず関係を重視する規範が発達した。欧州で戦争が起きた地域はその後より成長する傾向にある。これは絆を強め市場規範や法を遵守し信仰を強めたからだろう。また同様に十字軍を送り出した街はより発展した。規制改革により競争が激化すると企業はより内部の結束を強め有効な組織になろうとする。雇用市場は流動的だから非属人的な向社会性を強めるだろう。実際規制改革が起きると人を信頼できると答えるようになる。これは米だけでなく独でも同様で、またPGGの実験でも確かめられる。集団間の競争は宗教性を強めることなく戦争と同じような心理状態の変化をもたらすのだ。街や修道会やギルドや大学などの自然発生的組織が競争してその数を黒死病が流行っている最中に拡大していったのが欧州の近世だった。血族社会では競争激化は中国のようにただ信頼が減るだけとなりうる。
時間に正確で時は金と認識しているWEIRDの特徴だ。市場は時間を効率的に使うよう促す。中世を経て西洋人はより勤労に励むようになった。これは顕示的消費の影響もあろう。それとともに勤労を美徳と捉えるようにもなった。シトー会の活動拠点に近い人ほどそう考えている。そしてより忍耐強くなった。個人主義の都市では忍耐強い方が得なのだ。利子率は下がっていき殺人率も下がった。農業社会では人の生業の選択肢は少なく、縁故によりさらに減ってしまう。一方都市では様々な職があり気質に応じてやりたいことを選べる。ヒトの人格に5大特性があるというのがWEIRD社会の特徴であり、どんな性格でもなんでもやらなくてはならないような狩猟社会ではこの特性は2や3に減ってしまう。一貫性を持って物事に取り組む、自己を発見するというのは西洋の心理なのだ。
分析的な思考、人に資質があるという考え、独立していて調和しないこと、そして見知らぬ人にも社交的であることという心理状態は人の関係を構築し物理世界を考察する上で役立ち法や科学が発展した。またこの心理は民主主義の発展にも繋がり、その逆の因果も起きた。プロテスタンティズムは人々の心理が変化した原因でもあり結果でもあった。その信仰はWEIRDな思考法として都市で文化的に進化したもののそれであり、忍耐強さや欲を自罰するための勤労は経済成長に結びつき、自治を重視し教育で中産階級を強め自立させて民主主義的な制度の基盤になり、そして孤独なことから高い自殺率をもたらした。啓蒙思想もこの土壌から生まれた。
革新は多くの発明からなる。既存のアイデアや技術の再構成であり、集合的な脳を必要とする。これが西洋で産業革命を促進した。その背景には非属人的な信頼や独立心など心理的な発展があったのだ。また都市化で多様な技術を持った人がいた。血族社会では教師は見つけやすいが、WEIRD社会ではより多くの人からなるネットワークの一部となり最良のものから学べた。新居を構える新世代は周りから学び実験を繰り返した。修道会は技術を伝えた。職人の徒弟制が発達し、職人は都市とギルドの競争的な環境の中で働く先を変えることがよくあった。都市は人を引き付け革新をもたらす。大学の人たちは文通で繋がり、情報を共有して秘密や証拠捏造や盗用を罰するような規範が生まれた。ユニタリアンは知識社会の形成を促進した。圧政に対し退出で対抗できた。人と関わるのは何かを生み出すと考えるようになった。栄養を十分に摂るようになり認知能力が高まった。救貧法など政府の介入もそれを後押しした。教会の規則は確かに出生率を下げるような圧力があったが革新によりマルサスの罠を抜け出たのだ。
ユーラシアはアメリカと違い使いやすい家畜や穀物に恵まれており繁栄したという説は紀元1000年あたりまでは妥当だ。でもその後中東ではなく西洋が勃興したことを考察するには文化的進化による心理的変化の分析が欠かせまい。日中韓が成長できたのは農業と国家の長い歴史があり勤勉さや規範が生まれており、上からの西洋化が可能だったからだ。法典や科学的方針を真似しやすかった。中東が失敗しているのは血縁関係が強すぎるせいだろう。裕福になることはあまり心理的に変化をもたらさない。遺伝的進化はこの文化的進化に逆らうような形で影響していただろう。なぜなら欧州の都市は疫病が蔓延しているような場所でそこを好む個体は死にやすかったからだ。修道会もまた同じように遺伝の墓場だ。西洋の制度を違う土地で当てはめようとしている場合はどのような心理的影響をもたらすかを考察する必要があろう。男女平等やロボットやAIなど社会は変化し続け、心理もまた変化しているのだ。

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・エロサイトでよくstep motherだのsister in lawなどの用語が人気と出てきてるけど別にムラムラくるの当たり前じゃんとか思っていたけどこれ西洋(キリスト教)の特徴なんだな。禁止されてるからだろうね、業が深い。
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2020年09月15日

米国の人種の不平等の議論を整理する古典

Glenn C Loury, "The Anatomy of Racial Inequality"

The Anatomy of Racial Inequality (The W. E. B. Du Bois Lectures Book 4) (English Edition) - LOURY, Glenn C.
The Anatomy of Racial Inequality (The W. E. B. Du Bois Lectures Book 4) (English Edition) - LOURY, Glenn C.

黒人差別はアメリカで長く続いている。以下三つの前提のもとこれを分析するのが本書の狙いとなる。1.人種というのは人工的区分であり生物学的には正当化できないヒトの部分集団である(構成主義)。2.黒人が社会において持続的に不利な立場にあるのはヒトが人種を本能的に不平等に扱うからではなく社会的な理由から(非本質主義)。3.黒人が異質であるという認識は奴隷制の歴史によりアメリカ人の心に埋め込まれている(染み込んだ人種的烙印)。著者は政治的歴史的社会的にアメリカで独特の地位を占め、アメリカ社会固有の経済的政治的制度において過酷な取り扱いの影響に置かれそしてそれに反応してきた集団として黒人に焦点を当てている。
社会環境を理解するために情報を得て分類するのが人というものなので、出会う相手を分類すること自体は認知的な活動に過ぎず規範的な活動ではない。人種を以下のように定義する。世代をこえ受け継がれる身体的特徴を持つ集団であり、その特徴は他者から見つかりやすく変化させるのは困難であり、社会において意味を持つもの。この身体的特徴は歴史的な文脈で意味を生じてきたものだ。科学的には人種という裏付けがなくともこの分類に沿って違う行動を取っているならその主観的な認識自体が重要となる。迷信でもないし道徳的に間違っているわけでもない。自己実現的ステレオタイプというものがある。これは統計的な一般化であり、ある集団に関して正であるという理由はあるものの、集団の一員については真偽の定まらない命題のことだ。観察者はこの一般化に従って行動する結果さらに最初の偏見を強化するということになり自己実現的となる。例えば黒人が金を返済しないと統計的に正しい偏見を持っているとしよう。でも危機になっても黒人が猶予をもらえないのかもしれない。責任感がないわけではないのに証拠はそう示すことになり誤解したままとなろう。限られた情報の中で推測を行い、個人の行動にフィードバック効果があり、そして均衡では信念と行動が合致してしまっている。例えば黒人は努力をしないと雇用者が考えており、研修期間後に使い続けるか決めるとしよう。このとき研修期間に黒人がミスをすると偏見どおり怠惰だと判断されて解雇されやすくなろう。ミスを少しでもするとクビになるので黒人の方でも努力をする気が無くなるだろう。そしてこれは最初の偏見を強化することになる。違う例として、タクシードライバーは強盗を恐れ若い黒人を載せないとしよう。他の交通機関を使うので長い時間待つ黒人は強盗をしたい人だけとなろう。逆選択が生じてしまうのだ。悲観的な期待に沿った運転手の行動がこの結果を生んでいる。また、営業が黒人は自動車に対し高い留保価格(それ以上だと取引しないことになる価格)を持っていると考えているとしよう。このとき他の店に行っても同じように高い値段がつくと黒人は予想し高い価格を受け入れるだろう。そして実際に留保価格が高くなる。黒人と白人に同じような入学基準を課すと十分に黒人が入学できないと考えているとしよう。すると黒人学生は努力しなくても大学に入れるようになると考えるだろう。仮に同じような成績を挙げられるとしても自己実現的な予想となってしまう。もちろんこれだけではない。また行動主体について道徳的な判断を下してはならない。なぜ黒人ばかり損をしているのかというと歴史的経緯のせいだ。誰かが何かすべきとも思うかもしれない。多くの相手がいて各個人は何をやっても人口上の特徴を変えられない競争的環境と変えられる独占的環境があろう。後者なら自分の行為を変えれば確かに変化は起きけど前者だと結果に変化は起きない。たとえあるタクシードライバーが止まっても強盗されるだけだ。後者なら自分の予想が正しいのか実験して確かめるのは自分の利益とすらなるかもしれない。でももし本質論に囚われていたら実験しないかもしれない。学習は困難なのだ。分類と推測とは分けて考えるべき。分類は質的な枠組みでありこれに沿ってデータが集まる。推測はデータに基づく量的な計算だ。ステレオタイプは推測に基づくもの。そして実験による学習は分類に属するものだ。認知的な囚人となってしまっていている。気取った話し方やおめかしなどその他の多くの指標を使うということはあり得よう。俺は奴らとは違うという具合に分断と離脱が生まれるだろう。もちろん社会構造のせいでありこの離脱者を叩くのは不適切だ。自業自得だということになり平等化に向けての政治的な熱意は薄れることになる。規範的な側面より認知的な側面に焦点を当て、人が社会的情報をどう考えているかにつき考察するのがいい。
他者から悪く判断される身体的な特徴を持った人たちについて分析したゴッフマンは二つのアイデンティティを区別した。一つは外から与えられるもので、これは社会的に構築され社会的な意味がその見た目に加えられる。もう一つは内から形成されるもので、これは実際のもので客観的に生きた歴史として出来上がる。2つの場合を考えよう。まずある人種集団が均一的で誰もが1割の確率で犯罪する場合。次にある集団が不均一的で9割の人は犯罪をしない善人で1割はいつも犯罪をする悪人の場合。事実が後者でも前者を信じている法執行官は、外から与えられた人種という枠組み以外で分類する方法を見つけて頻度を確かめないと自分の間違いに気づけない。でも学習に価値がないと考えてしまってそのままになるだろう。実験しない限り間違った信念はそのままだ。黒人は劣ったものであるという意味づけの歴史的源泉はアメリカの奴隷制にある。この社会的認識は現在まで続いており、囚人が黒人だらけになっていても貧困層が黒人だらけでも黒人がゲットー化していても人々は気にもとめず政治的に変えねばならないという声が起きにくくなっている。男は暴力的だから収監されやすくても当然という暗黙の同意と同じように働いているのだ。このような社会的認識の偏向が人種問題を考察する上での鍵となる。差別には二種類ある。一つは契約上のもので取引や雇用など公的な付き合いにおいて生じるもの。もう一つは人付き合い上のもので私的な関係において生じるもの。公的介入は前者ではできるが後者ではできない。黒人は社会的な認識の偏向により後者で不利益を被っており、連帯するといいかもしれない。人は一人で存在するものではなく付き合いにより育まれるものであり、後者で不平等があると技能の習得においても不利となる。
社会正義について2つの考え方がある。一つは人種を問わないようにしようというもの。これは過程に関するもので人種により扱いを変えないようにするという方針で自律と公平を重視し歴史は考慮しない。もう一つは集団の現状に焦点を当て、過程のみならず結果も考慮しどのように不公平が生まれたかを酌量するという方針だ。リベラリズムは自律的な個人を前提とするが、それは法や社会的な繋がりや経済的な関係の結果として現れるものだ。そして自信がなく異物であり自暴自棄となった個人はまた社会的に生まれるものだ。人種の不平等が起きた歴史の考慮に欠いている。不正義の歴史については補償の問題と解釈の問題がある。人種によらないことと人種に関係ないこととは違いがある。例えば学校上位10%に入学を認めるという基準は明らかに黒人に有利だが人種にはよらない基準である。道徳的に問題となるのは前者ではなく後者なのだ。正当性に配慮する裁判所は黒人を判事に選び、麻薬の売人はどの人種でも捕まるがその結果大量の黒人が投獄されている。人種が本当に道徳的に無関係なのかは学習環境で人種構成がどのようになっているか把握した上で決めることだろう。政策介入、政策評価、市民の構築という領域において社会正義は問題になりうる。人種によらないという視点が有効なのは一つの国を作ろうという最後の領域だけでだろう。
経済取引など公的な場での不当な扱いではなく私的な場での扱いを構造的に是正していくのが今後の課題なのだ。

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・race blindなだけでは不十分というのはまあわかった。でも肌の色だけじゃなくて例えば性差とかその他の社会的認識上の優劣の基準全部にそういう矯正持ち込んだらめちゃくちゃになりそうな気がするんだよね。
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2020年09月09日

平和構築のためには民族を認めよう!

Elizabeth King and Cyrus Samii, Diversity, Violence, and Recognition: : how recognizing ethnic identity promotes peace

Diversity, Violence, and Recognition: How recognizing ethnic identity promotes peace (English Edition) - King, Elisabeth, Samii, Cyrus
Diversity, Violence, and Recognition: How recognizing ethnic identity promotes peace (English Edition) - King, Elisabeth, Samii, Cyrus


国内に平和を構築するためには二つの方針がありうる。まずは、統一した国民を形成し民族というくくりを越えようとするもの。次に、公的制度について民族による数量割り当てを行うというもの。本書は後者の方針を民族承認(ethnic recognition)と呼び、どのような条件のもとでそれがうまく働くかを調べていく。制度が重要という点については社会科学者には合意があるが、国内の民族ごとの権力構成がどうなっているかが重要という点は見過ごされてきた。民族承認には相互不信を薄めるという保証効果と、民族に沿って政治的に動員しやすくなるという動員効果とがあり、多国間比較やブルンジ・ルワンダ・エチオピアの事例研究でそれがどう効くかをみていく。
覇権が崩れるときにだけ民族承認が得られるという説明は不十分、なぜなら黒人やインドの少数派へのアファーマティブアクションは多数派優位のうちに出来上がったからだ。また国際協調で真似しているという説明も不十分、なぜなら地域ごとに方針にばらつきがあるから。ここで人口の多数派を占める集団が国を指導していたら多数派支配、少数派を占める集団が国を率いていたら少数派支配と呼ぼう。民族承認の保証効果は以下だ。民族としての承認自体が心理的利益となること、民族集団に沿ってしっかり資源が透明化されて配分されること、そして法的基礎として様々な政策に使えることだ。反対集団の不信を拭うことに役立つ。ただし関係改善に向けて努力される必要はあるし多数派の強化に使われてはならない。民族承認の動員効果は以下だ。人の差を強調すること、そして動員を容易にすること。多数派支配ならこれら二つの効果はどちらも望ましい。反対集団の需要は満せかつ政治的に安定できる。多数派支配で民族承認が採られないのは少数派の不満を満たせないようなものが制度上指定されているときだろう。少数派支配だと動員効果は不利益なので、民族を超えることで政治的競争を避けようとするかもしれない。専制的手段により反対派を圧することができれば少数派支配でも民族承認を採りうる。二人をランダムに選んだとき異なる民族である度合いを細分化度と呼ぶが、これが高い場合はどの集団も社会を統制できないので少数派支配は戦略的にそう悪い状態でもない。動員効果は弱くなろう。高い細分化度だと多数派支配は民族承認をいい戦略と見なさないだろう。なぜなら人口的にそこまで優位を保っていないからだ。
1990-2012年にかけて57ヶ国につき制度上の変化があった86の事例を見るとその約4割で民族承認が起きておりばらつきが大きい。
多数派支配では民族承認がなされ、少数派支配だと民族承認は起きない。民主主義の程度は関係ない。軍事的勝利でも平和的交渉でも同じ比率で民族承認がなされている。多国間の制度は関係ない。植民地支配の歴史は重要だが民族の権力構成が重要という点を打ち消す程ではない。少数派支配だと民族承認がなされないという傾向は特に民族紛争の場合に強い。この結果は欧州を省いても同様。細分化度が高いと多数派支配でも民族承認がされにくくなる。また民族の違いが大きくても同様の結論となる。そして軍事的勝利や専制的な制度などより権力が強い場合、少数派支配だと民族承認がなされにくくなる。
少数派支配は多数派支配と比べ、議会や教育や言語の政策よりも政府の高官や安全保障や公共サービス部門で民族承認の方針を取らない傾向にある。民族承認は国家権力において民族を排除しないことと相関している。DIDで比べると民族承認は政治的暴力を減らし経済的繁栄を高め民主的な統治につながっている。この正の効果は多数派支配のときになされている。少数派支配ではそうはいかない。
植民地支配以前、ツチ族はエリートでフツ族は大衆であり階級的な分断であった。独立から1993年の内戦に至るまでブルンジはツチ族という少数派により支配されており、民族承認はなされていなかった。しかしクーデターや暗殺を経て次第にフツ族という多数派に支配されるようになり2000年や2005年の制度変化で民族承認が議会や教育など多くの分野でなされるようになった。1992年の変化では権力の実態に沿わなかったが、その後民族承認がなされその結果平和が構築された。ツチ族に占められていた軍隊は民族が混合するようになり、政治競争では民族を超えた連合が生じている。近年では大統領の任期が伸ばされるなど専制化の動きが見られ、また民主主義に戻れるかそして民族の均衡が保てるかが注目されている。
ルワンダではフツ族の支配が続き民族承認がなされていた。ブルンジの例とは違い民族構成に沿って割り当てが決められていた。亡命から戻ってきたRPFが侵略を成功させてツチ族の支配となり、民族承認がなされないどころか民族に言及することはご法度とされた。経済成長は進み政治的自由も増えてはいる。しかし演説の自由はなく国民統一の名の下にこっそりツチ族優位な統治が行われており民族についての調査は困難を極めている。むしろ民族の重要性が増してしまっている。
エチオピアは民族の細分化度合いが高い国で、長く少数派のアムハラ人の支配が続いた。ハイレセラシエ皇帝はアムハラ族への同化と民族承認の否定を行った。その後の共産主義軍事政権も民族承認をしなかった。これに対抗するため立ち上がった少数派集団は他の集団からの支持を取り付けるために民族承認を行い、民族の意識を高め政治動員をした。民族の連邦国家が作られ多くの分野で民族承認がなされた。経済は発展したが専制的な制度のままであった。民族の連邦という影に隠れアムハラ人優位の方針が取られ、その他の集団は分割によりアムハラ人に対抗しづらくさせられた。近年では初めてオロモ人による多数派支配が行われており、政治的自由を増やし民族間の不信を減らそうという政策がとられている。
民族承認は連続的なものであり次第に現れてくる。少数集団の需要により生まれてきがちだがそれだけではない。民族承認も民族非承認も逆の効果を生みうる。そして理想的な手段ではなく権力奪取の手段ともなりうる。平和を構築したい人のための政策的示唆としては、歴史に学ぶこと、分断を埋めるには民族承認はいい手段でありうること、そして地域ごとに調整しうることが挙げられよう。長期的な影響を調べたり民族の重要性の薄まる理由がなぜかを考察したり制度の詳細の影響について調べたり北米や欧州の諸問題に応用してみても良さそうだ。

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・エチオピアの今後がたのしみ〜!
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2020年09月04日

宗教の経済学

Robert Barro and Rachel McCleary, The Wealth of Religions: The Political Economy of Believing and Belonging

The Wealth of Religions: The Political Economy of Believing and Belonging - Barro, Robert J, McCleary, Rachel
The Wealth of Religions: The Political Economy of Believing and Belonging - Barro, Robert J, McCleary, Rachel

宗教は現代でも重要である。宗教経済学は教義の中身には立ち入らないものの、どのように宗教が進化し、競争し、富を生み、日常生活に影響するかを考察する科目だ。
収入や教育や都市化や長命は信仰心を弱めるという世俗化仮説がまず示される。宗教もまた市場であり、国教があると宗教の多様性が失われ参加率が低くなる傾向にはある。とはいえ世俗的な活動を妨げることで宗教活動に参加させることもありうる。現代では教会への参加は低くなり、天国や地獄があるという信仰も失われてきている。共産圏では信仰心は薄くなっている。
ウェーバーはプロテスタントの倫理が経済を発展させたと主張した。実際データを見てみると天国や地獄の存在は経済を成長させる要因になるが教会への参加は逆の要因になっている。社会的繋がりよりは信念が経済発展をもたらしているようだ。19世紀のプロイセンやスイスをみるとプロテスタントの地域は教育程度が高くなっており、人的資本の開発を通じて経済成長に繋がっていると言える。
イスラム系国家は11世紀までは科学貢献に優れていたが、それは知識階級が大いに討論し合っていたからであった。しかし法や規制がその環境を壊してしまい、神学校さえ権力者の顔色をうかがうようになってしまった。相続法は資本の蓄積を阻害し、信用市場は規制され、法人は作られなかったのだ。このため西洋に遅れをとることとなった。イスラムに対抗しようとカトリックとプロテスタントが手を結ぶこともあった。メッカ巡礼はムスリムの間で女性の権利を認めることに繋がるが、家父長制を疑うことには繋がらない。断食は満足度は高めるものの経済活動は阻害する。
ある国で主な宗教に帰依している人が多いほど国教は生じやすくなる。人口の多くがムスリムの場合は、たとえ宗派が分かれていても国教が生じやすい。これは、政治制度もまた宗教権威の延長と捉えられているため。トルコに国教がないのは異例の事態。経済環境は国教があるかどうかとは関係がない。国教は非常に長く続く。
宗教をクラブとして捉えると見えてくる点は多い。加入するに費用がかかるのはやる気のある人員を揃えたいから。フリーライダーを防ぐため自己犠牲が必要とされることもある。メンバーは同一的なため相互に援助しやすい。チベット仏教のゲルク派は様々な宗派が競争する中でのし上がってきたかつては暴力に長けた派閥であり、この説明の例にふさわしい。
列福は非常に時間のかかる過程だ。列聖には奇跡が二つ認定される必要がある。かつてはイタリア及び西欧出身者が多かったが次第に東欧や北米などその他の地域からも選ばれるようになってきている。また女性や平信徒も選ばれている。ヨハネパウロ2世は非常に多くの人を列福し列聖した。これはプロテスタントに対抗するためだ。特にラテンアメリカでその傾向が顕著となる。また無宗教への対抗でもある。政治的な人物も殉教者として扱われたり新しい動きがある。他の宗教における聖人のデータとも組み合わせ分析を進めると良さそうだ。
発展に効くのは信仰なのかそれとも何かに所属しているという感覚なのか、それとも宗教団体が提供する教育機会なのかなど細かく見ていくといいだろう。またどのように広がっていくかを調べてもいい。交易路に近いほどイスラム教の影響は薄くキリスト教の影響は濃くなっている。宗教と科学は互いに排他的ではない。宗教は国から指定されるのではなく自由に競争できるときに人から支持される。近年、人はしばしば改宗するし宗教団体に加入する理由も信仰心からではない。様々な研究が可能だ。

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・母校の遠い創設者が列福されたのは俺が入学したおかげとか思ってたけどそうじゃなくて布教の一環だったとは!
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2020年09月03日

監獄の比較制度分析

David Skarbek, The Puzzle of Prison Order: Why Life Behind Bars Varies Around the World

The Puzzle of Prison Order: Why Life Behind Bars Varies Around the World (English Edition) - Skarbek, David
The Puzzle of Prison Order: Why Life Behind Bars Varies Around the World (English Edition) - Skarbek, David

ノルウェーの監獄は快適だが南北戦争のアンダーソンビル捕虜収容所は極めて過酷で多数の死者が出た。監獄内の統治のあり方は様々でありその差がどのように生じるかを説明するのが本書の目的となる。確かに囚人は全人口に対し少ないが、無秩序が蔓延しては生活の質が酷いものになるし、ほとんどの囚人は釈放される。塀の中から外の犯罪を取り仕切るギャングもおり、何が起きているのかを理解する必要は高い。官吏が十分に資源を配り統治が行き届くなら囚人は法の外での統治を行わないが、官吏の統治が不十分なら囚人自体が統治を始めるだろう。統治する利益がその費用より低ければ囚人は秩序を形成しないだろう。そして人口が少なくネットワークが密で社会的距離が近いなど規範からの逸脱を罰しやすければ囚人は分散型の統治を行うようになろう。これらの点を具体的な監獄の事例に即して検証している。
ラテンアメリカの監獄では予算も刑務官も不足している。食料と清潔な飲料水は足りない。そのため囚人たちは自ら統治している。ブラジルでは刑務官との共同統治となっている。囚人代表は即物的な利益を得ているわけではなく、不平等は生み出していない。囚人を牢獄にどう割り当てるかや新参者がどれだけ危険かを見定める役を担っている。また清掃や調理や集配や修理など日常業務も行う。刑務官は囚人代表を通して意思疎通を図り監獄へは入らない。囚人の役割は重要で比較的効果があり共同統治という形態にでき、囚人は官吏を補助できるのだ。ボリビアでは入獄と出獄が公的に決められる以外全て囚人に委ねられている。活発な市場があり何でも買える。囚人は民主的に代表を選び自治を行い、財務官や懲罰長官やスポーツや文化や教育の長官などがいる。性犯罪者は村八分に遭う。子や妻を連れてきて一緒に住む囚人もいる。ブラジルでもボリビアでも監獄に秩序はあるが貧困に満ちている。しかしそもそも資源が足りないのであり虐待や拷問がないだけマシであろう。政府がやらないなら囚人が統治をするようになる。その形態は上からでも下からでもあり得る。秩序の作り方は様々だ。
北欧諸国では刑務官の統治が行き届いている。監獄は小さく有刺鉄線や柵のない開放的なものすらある。閉鎖的なものは全体の2/3ほどだ。刑務官の教育水準も高い。重罪犯が収監されるところでも囚人間の対立はあまり起きないし暴力沙汰にもならない。それは、危険で邪悪で倫理が欠けている人とは接触しないものであり、監獄に適応できない人は避けられがちで、性犯罪者や密告者など低い社会的地位のものは追放されるからだ。麻薬は市場での交換ではなく囚人間での互酬的共有により消費されている。これは一種の規範でもあり、そうすることにより麻薬にありつける。治療目的で刑務官により持ち込まれ厳しい管理のもとに置かれているが過剰な処方により蔓延している。保管すると看守に見つかるかもしれないので交換ではなく共有によりすぐに消費されているのだ。囚人には評判があることもこの仕組みに寄与する。回避や追放など分散的な処罰方式が可能なことが薬物蔓延にも繋がっている。政府がしっかり統治していれば囚人の役割は小さい。これは市民間の信頼のためではない、なぜなら北欧の方が南米より他人を信頼しているからだ。また信仰のためでもない、なぜなら囚人は不信心だし統治に宗教団体が関係するという証拠もないからだ。
南北戦争時のアンダーソンビル捕虜収容所では刑務官も囚人も統治をしなかった。これは孤立した場所だった。管理者も物資も足りず住居が建てられずテントすら不足しており、下水は整備されず悪臭が漂っていた。混雑しすぎたため次第に捕虜は他の収容所に送られることになった。他の収容所に比べ死亡率は圧倒的に高かった。命令系統は錯綜していた。貧困が蔓延し餓死者が出た。孤立しているため家族はやって来ずまた近隣住民は進入禁止とされたため経済活動の機会は限られていた。暴力沙汰は多く次第に略奪は組織化され、新参者がその対象となった。治安のあまりの悪化に対応するため囚人による自警団が形成されたが略奪の恐れがなくなるとこの秩序は消えた。政府は効果的に統治できないだけでなく囚人と外の世界との交流を防ぎ自助努力の余地をなくしてしまった。自由があれば秩序を形成してそれを守ろうとしたはずだ。また反乱の恐れから囚人が資源を蓄えるのを恐れた。そして囚人はすぐにまた北部に戻れるという誤情報をつかむことが多く、秩序を形成して長期間過ごすという動機が失われていた。ほとんど統治がない事例といえよう。
カリフォルニアの女性受刑者の社会は1960年代とあまり変わりがない。男性受刑者の社会は監獄内ギャングに仕切られるようになったことと比較すると大きな差がある。これは女性の方が暴力に頼る傾向がないからというわけではない、なぜならギャングには女性も多いし受刑者が暴力行為に及ぶ頻度は男女とも差がないからだ。それより囚人の数があまり増えていないからというのが原因だろう。自分のことは自分でやる、友人は少なくする、互いに面倒を見る、他人を信じない、告げ口しないなどの規範が保たれている。無視や噂や暴力の脅しで対立は解決されている。規範に従うほど地位が高いとみなされる。誰かが秩序を保つという任に当たっているわけではない。多くは擬似家族を形成する。世話や保護をするのが母親と呼ばれ、規律付けるのが父親と呼ばれる。既に刑務所暮らしが長くどう過ごせばいいか解っている人は入らない傾向にある。男の監獄内ギャングと違い重要なのは個人の評判であり集団ベースで報復が行われることはない。また永遠にその一員であるということはなく重複もしうる。前科は問われない。人種は混合している。
イングランドとウェールズの監獄はカリフォルニアのそれと比べ規模が小さく、地縁のあるものが同じ刑務所に入りやすい。どんな相手なのかすぐにわかるため秩序を作るには規範に従わない者を無視するだけで十分であり監獄を取り仕切るギャングは発達していない。人種や民族で分離が起きているわけでもない。人口が増えてきて統治が行き届かなくなってきており、その隙間を埋めるように性犯罪者にすら安全を保障するイスラム教が監獄内で増えている。しかし中央集権的な統治をしているわけではない。
ロサンゼルスには巨大な監獄があり、ゲイとトランスジェンダーの囚人は選抜の上でK6Gという住宅区画に住むことになる。それ以外の区画より小さいことから統治は良好であり、刑務官との距離も近い。囚人からハツカネズミと呼ばれる代表が選ばれ共同統治の格好になっている。擬似家族を形成する者もいる。同じ苦難を経験することから互いの距離は近くまた常習犯も多いので囚人個人の評判は保たれる。監獄内ギャングに秩序の形成を頼る必要はないのでそのような団体は見当たらない。その他の区域より安全であると回答する人は多い。しかし実際には痴情のもつれからか摩擦はしばしば発生している。とはいえギャングが形成されるほどではない。
監獄研究の多くはある監獄の特殊性に焦点を当てるが比較制度分析をして違いがどのように生まれるか調べても有意義だ。本書では監獄の統治の質を政府がどう決めているかや共同統治と自治の差がどう生じるかや規模や地域がどう政治的に決まるかの分析は外した。監獄比較から5点がわかる。まず、自律は人口が小さく評判が機能する場合に生じるということ。次に、自治には必ずしも政府の影が必要ないこと。そして、社会的距離がどのような組織が形成されるかについて影響すること。また、人口は民族が重要かどうかに効いてくるということ; 受刑者が増えすぎた結果、民族ごとに分離が起きたのがカリフォルニアの例だ。最後に、共同責任システムは個人の権利に関係するということ。さらに調べどのような点が他に関連するか調べるといいだろう。

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・日本はどの事例に当たるんだろう?
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アメリカの監獄はギャングにより統治されている

David Skarbek, Social Order of the Underworld: How Prison Gangs Govern the American Penal System

The Social Order of the Underworld: How Prison Gangs Govern the American Penal System (English Edition) - Skarbek, David

カリフォルニア州の監獄では囚人は身の安全を保障するために必ずしも刑務官を頼れない。本書は方法論的個人主義を取り合理的選択という見地から監獄内での囚人の行動を説明していく。暴力的だがふさわしく振る舞えないと命取りになるのが監獄内であり、様々な動機が存在している。通常、統治機構は3つの役割を果たす。所有権を保護し取引から利益を得ることができるようにし安全保障など集合行為を解決しているのだ。しかし麻薬の売人はブツを奪われても詐欺にあっても警官には頼れない。囚人は信頼できる存在とは言えず、自律的な秩序が生まれるのか確かめるには適した素材といえる。監獄内にはギャングがおり重要な存在となっている。学術文献や法廷資料や調査官の日記やギャングの旧メンバーの著述からその機能を示すのが本書の目的だ。
囚人は暴力的だが暴動発生率を見てみると概ね平和が保たれている。刑務官は全てを見張れるわけではなく怠慢になったり未経験であることもあり囚人としては頼れない。収監者間で取引してはいけないという規則になっておりスマホや麻薬など禁制品の売買に当たっては自分で何とかしなくてはならない。不実な取引相手を罰する第三者として刑務官は頼れず、取引相手を信頼できる相手に限定できるわけでもなく、相手は長期的取引を旨味に感じるほど我慢強いわけでもない。解決は困難だ。そこで秩序の形成にあたり囚人は規範と組織を利用している。前者は何がふさわしい行為かを決める。破られたとき誰が罰するかは決められていない。会議で決めるわけではないので費用はかからない。後者も何がふさわしい行為かを決めるが規則破りを誰が罰するかもまた決まっている。これは情報収集や執行規則を決める必要があるため費用がかかる。かつての収監者は囚人規則と呼ばれる規範に従っていた。規律付けについて監獄や刑務官を助けてはならず、情報特に同じ囚人に損が生じるようなものは決して渡してはならず、囚人に対して忠実であることというのがその内容だ。これに従うほど囚人としての地位は高まる。児童性的虐待者や密告者や女殺しの地位は低い。規則違反者には悪評がたち無視され処罰が下る。また暴力は度合いを高めやすく規範への忠実さを示すことができるので罰として利用されている。1960年代以前には囚人は3,4人ほどの派閥を組み分散的に秩序を形成していた。リーダーシップは一時的なもので重複して加盟することもあるし抜けることもあった。これは現代とは違う。規範は人数が少ない場合には違反者を確かめやすく評判も働きやすいが、収監者が増えるにつれこの規範の拘束力は薄まった。より暴力的な者や初犯者や若者が増え、黒人やヒスパニックも増えたからだ。このため1960-1973年の間には暴力沙汰が増した。
組織犯罪の本質は取引の保護にある。商人は売買の保証としてマフィアに頼ることがある。ヤクザは公的な訴訟の代わりに利用され債権取り立てなどに従事する。アメリカのストリートギャングも若い組織員を保護している。政府が所有権を保護しない場合に現れる。地理的に孤立している場合、禁止品の売買、革命や暴動など政治的に不安定な場合に発達する。矯正を目指し建てられた刑務所は大量の若者を収監し、メキシコ系ギャングを発達させてしまった。他の監獄でもメンバーを募り巨大化した。これはメンバーの保護を目的に生まれたが次第にその他の囚人を搾取するようになり、黒人も白人もそれぞれ自衛のためにギャングを形成していった。監獄外からもたらされる麻薬取引を保証する存在として役割を果たしている。監獄内ギャングは外から輸入されたわけではない。また裁判所の介入が影響したわけでもない。矯正政策が変化したせいでもない。自衛の需要のせいでもない。差別主義のせいでもない。統治権力の不在を埋めるために発達したのだ。
中世の商人は以下の問題を抱えていた。取引相手がどれくらい信頼できるかわからないこと、取引相手と将来に渡り関係があるかわからないこと、不正直に振舞われたらその悪評をちゃんと広められるとは限らないことだ。法廷にも頼れなかった。これは囚人も同じだ。このような場合には共同責任システムが発達する。共同体加入者は他の加入者の行動について責任を持つことになる。一人一人は知らなくてもその集団の評判を知っていればいい。このため囚人はギャングの構成員であることを入れ墨で示し、加入者の質を確かめその行動を監視している。監獄内では人種や民族により集団形成が行われている。いつ誰とどこで何をすればいいのか細かい規則がありそれを破ると袋叩きに遭うため、ギャングたちの支配からは逃れられない。ギャングの仕事は対立や麻薬取引や窃盗について囚人間の紛争をまとめることだ。それぞれの構成員につき集団として責任を負っている。情報を収集し新参者を教育しているのだ。快適に過ごせるよう、また刑務官の目を引き麻薬取引が駄目にならないよう監獄内の秩序を保っている。規則違反者の表があり何をしてもいいとされている。ギャングは確かに脅迫や暴力に従事しているが、秩序を保つためかもしれない。麻薬や売春など需要に応じているという側面もある。囚人にとり生産的なのかそれともただの掠奪者であるのかはランダム化による証拠がないため今のところ判然としない。政策的には以下の点が重要だ。まず、規範は囚人の統治にあたり必要でも十分でもないということ。そして受刑者の増員は必ずしも無秩序に結びついたりその防止には厳しい監獄が必要というわけでもないということ。そして、共同責任システムが重要ということは公的な統計は実際の暴力行為を過小に表しているということだ。
犯罪組織は以下の3点を解決する必要がある。まず質のいい構成員を集めること。暴力をちゃんと執行でき、賢く忠実でなければならない。次に、他の構成員に迷惑がかかるような行動は慎ませなければならない。臆病な振舞いや同性愛や密告は罰せられる。そして構成員の行動を監視できなくてはならない。そして無能なリーダーを降ろせるようにする必要もある。従うべき憲法が存在する。普通の組織とは異なり退出ができないため、事後の搾取を恐れて加入を控える恐れがある。憲法で発言権を与えて他の構成員からの機会主義的行動を防止することでこの問題を解決しているのだ。採用活動では忠誠が求められる。終生の誓いになるのはこのためだ。構成員同士の抗争は御法度とされ商売も敵対しないように調整される。独裁は情報収集に不適なためそのような構造にはならない。監獄内で情報収集をするのは困難である。またボスが一人だと搾取しがちになる。権力の抑制と均衡が生じるような構造になっている。(元)構成員からの不満はしばしば起こり、完璧な組織形態ではない。
ストリートギャングは監獄ギャングに税を納めている。しばしばそれは恋人の役割となる。監獄ギャングはストリートギャングにその他の麻薬売人から収税を任せてもいる。逮捕される可能性がありその場合は監獄で孤立してしまうこと、他のメンバーが人質に取られていること、その他のストリートギャングからターゲットにされること、これらの理由で税が払われている。監獄ギャングに近づく意図を持っている場合もある。監獄ギャングは納税ギャングを監獄内で守り、麻薬の売人をストリートで守り、納税ギャング間の紛争を解決している。
法の外にも市場は発達する。監獄から学べることは以下だ。法の外にある統治機構に人がどれだけ利用しているか把握しなくてはならない。不法な制度は合法な制度よりも重要でありうる。協調と取引は政府がなくても生じる。制度は意識的にでなくても生まれてくる。ギャングの蔓延に対処するには監獄をより安全かつ自由にし、収監人数を絞り、より多くの警官を雇うといいだろう。ギャングの統治への需要が減るからだ。

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・小児性愛者が忌み嫌われるの理由がよくわからない。。。殺人鬼の方が普通に怖くない???
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