2021年11月30日

仕事と家庭の両立のために

男女の賃金格差がなぜ生じているかを歴史的なデータを使って考察している本が出ている。

Career and Family, Claudia Goldin著
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1940年代にはあからさまな差別があったが、女性の地位は向上し続けてきた。とはいえ今でも男女の賃金には格差がある。これは両者が違う職に就いているからではない。たとえ職業分布が同じでも格差は1/3程度しか縮まらない。原因は、「貪欲な仕事」にある。それは24時間不測の事態に備えることが要求される管理職や、ずっと頭を働かせていることが必要となる研究職のような時間のかかる業種のことを指している。一方で、親は病院や学校からの連絡に対応する必要があり、家庭を持つことは時間のかかる活動だ。このためには労働時間が柔軟な職が必要となる。著者は、賃金格差が縮小するには柔軟な職種がもっと増えて生産的になることが重要とみている。ここ100年で仕事と家庭の両立という考えがいかに生まれてきたかを眺め、今日どうなっているかを語るのが本書の内容だ。
家庭とは子どもを持つことと定義し、キャリアとは昇進したり持続的に行う仕事のことと定義する。後者はアイデンティティとなりうる。収入のために就く仕事は職と呼ぶこととする。学士号を持つ女性のうち、1878~1897に生まれた世代を第一、1898~1923の世代を第二、1924~1943の世代を第三、1944~1957の世代を第四、1958~の世代を第五とする。こう分けると、世代内では似通っているが世代間では差がある。第一世代の特徴は、キャリアを築くか家庭を持つか二者択一であること。第二世代は第一世代と同様に初婚年齢が高めで、職に就いてから家庭を持ち、その後は働かなかった。第三世代は一番似通っており、多くの雇用制限が撤廃されまた人口動態の変化があった。初婚年齢が低くまた結婚率も高いのが特徴だ。家庭を持ったのち職に就いているがキャリアを積むまでには至れなかった。離婚率も高い。第四世代は前の世代を教訓とし、家庭内ではなく市場における能力の重要性を知った。避妊法が普及し望まない結婚を避け教育を積むことが可能となり、キャリアを積んだのちに家庭を持った。間に合わず子を持てない人も多かった。第五世代はようやくキャリアも家庭も持てるようになってきた。初婚年齢は高いが出産率は上がっている。1940年代中盤から1960年代中盤の大学は男が圧倒的に多かった、これは軍から帰ってきた人が多かったため。大学はパートナー探しの場としても機能している。大学に行ける層が変わっただけであるという指摘もありうるがそうではない。ラドクリフ/ハーバード大学を見ても同様にこのような世代ごとの差があるからだ。
第一世代の学士女性は3割が生涯未婚で5割が子どもを持たなかった。この頃は既婚女性に対する雇用規制と、夫と同じ職場には雇わないという縁故規則があった。当時は家電製品はなく家事は重労働だった。避妊法が発達しておらず、衛生も悪く抗生物質もなかったため新生児死亡率は高かった。子どもを失う率は農婦の方が女性教授よりも低いほどだった。この世代の著名人は学者や公務員やジャーナリストや作家や先生だ。子どもがいる人は作家やジャーナリストである場合が多い。それは時間の融通が効くからだ。活動家が多いのも特徴だ。データはあまりないが、ある調査では生涯独身のままの理由は金銭的に独立しているからとされている。このように歴史を見ると、個人では抗えない力の重要性がわかる。
第二世代は過渡期に当たる。生涯未婚率は減り、子を持つ人は増えた。家電製品により労働を節約できるようになり、また労働環境も変化した。オフィス内のホワイトカラー職が増えたのだ。これにより労働参加率が上がった。この事務職には教育が必要だったため、高校が増加した。入学した女子は男子よりも多かった。既婚女性規制を減らすような動きは大恐慌前まではあったが後にはなくなってしまった。この規制は、既婚女性を雇うかどうかを決めるものと、既婚になった既存の従業員を雇い続けるかどうか決めるものと二種類あり、前者が多かった。新しい先生候補はたくさんおり、学校は従順な労働者を求めたので既婚女性を雇わずにいてもあまり打撃がなかった。第二世代の黒人の大卒女性は結婚している人も子どものいる人も働き続けている人も比較的多い。これは黒人は南部におり、南部には教師が少なく既婚女性規制がなかったためだ。
1963年刊でフェミニズム第二波となったフリーダンの「新しい女性の創造」では当時の学卒女子の野心が低くなったと嘆かれているがこれは間違い。大学を卒業する女子の率は上がっているし、いい人を見つけて中退する率も低くなっているし、また学士以上の学位を取る人も増えている。結婚後も再度就労できるように、教育を専攻する人が多かった。学位があると就労の機会が開けた。また高卒に比べ大学卒の男子と婚姻する確率が高まっている。フリーダンは、家庭とキャリアとで後者を選択した人と、当時の一般的な学部女子を比較した点で間違っていたのだ。第三世代は全体としてはキャリアをより積んでおり、家庭を持てている人も増えている。調査では働き続けたいとの回答も多い。「わがままなキャリアウーマン」という考え方が流行ったのは労働への制約となってしまったかもしれない。
第四世代はピルによる静かな革命が進行していた。これにより望まない妊娠からの結婚をせずとも済むようになった。初婚年齢が上がり離婚が減った。そしてキャリアを積むようになった。結婚しても旧姓を使い続ける人が増えた。第三世代を目にしながら育ち、もっと上手くやろうとしていた。労働参加率が高い。大学での専攻も教育ではなくビジネスなど長期を見据えた内容のものが増えている。JDやMDの割合が増えた。教師の割合は減りさまざまな職に就くようになった。労働者としてアイデンティティを育むようになったのだ。
80年代にようやく不妊についての医学的知識がうまれた。治療の進歩と健康保険の拡充の影響もありキャリアのある女性が出産をする率は上がっている。これが第四世代との差だ。年齢が上がるにつれキャリアのある人は増えるが、これは子どもが小さいうちには若い女性はとても苦労をすることを示している。第五世代はさらに結婚と出産を遅らせた。専門職の人は労働参加率が高い。MBA保持者は家庭とキャリアの両立はうまくいっていない。これはあまりフレキシブルに働けないためだ。卒業から15年後には子どものいる人のうち半数は仕事を辞めてしまっており、支援が必要ではある。
女性に対する偏見や女性があまり賃金に対して交渉する姿勢を示さないことや競争したがらないことが男女の賃金格差に繋がっているわけではない。同じ職についた男女は最初は同じような給料を受け取るが結婚や出産の後に格差が出て来るのだ。キャリアを中断したり長い時間働けないことは金融などのような労働時間を要する職では非常な不利に働く。子なしの女性には格差があまりない。時間要求が緩く、予測可能な日程であり、他の社員により代替可能であるような業種では格差は小さい。技術者や科学やコンピューターや数学などさほど対面を要しない職がこれにあたる。競争的である職は格差は大きい。
薬剤師をみるといい。自営業ではなく法人化が進み、薬の標準化が進み、情報技術の洗練により各々の薬剤師は他の誰かにより代替可能な職となった。このため男女の賃金格差は小さい。代替可能であるということは低賃金になることでも価値が下がることでもない。これらの変化は多くの職でも起きつつある。
昔に比べ現代ではキャリアが固まるまでかかる時間が長くなった。キャリアと家庭を両立させようという人にとっては状況は困難になっている。女医は他の専門職と比べ出産率が高いが、これは働く時間を若いうちに減らすことで達成している。獣医は働き方が標準化し、男女の賃金格差が小さい職の例だ。呼ばれたらすぐに反応しなくてはならない職の賃金プレミアムを減らしフレキシブルな職を生産的にし、育児費用を下げることが問題解消への展望だ。
コロナの影響で多くの人が家から働くようになった。悪影響は女性に起きている。学校兼職場となり集中できなくなっているという声もある。キャリアと家庭の両立には働き方のシステムを見直すことが必要なのだ。

(感想)
・これ系の話だと、「もうギリギリまで頑張ってる女性をさらにもう一押しする」「家事育児をしない男を罵倒する」など倫理観を変えようとする路線をよく目にする。いや、それで解決するならとうに解決してるやろ…となるんだけどこの本はマジで一味違って本当に感動してしまった。標準化することでフレキシブルな仕事を作り出していこうという解決策にシビれる。システムを変化させようというお話。
・カップルの片方がオフィスからの緊急の案件に対応する高級取りの職に就き、片方が家からの緊急の案件に対応するフレキシブルな職に就いているから男女の賃金格差が縮まらないというロジック。嫁が前者に就いて夫が後者に就いても良くない?とは思う。そうならない理屈が欲しいような、でもそれは小さい穴のような。
・格差を縮める方法として採用でのブラインドオーディションをするという非常に有名な著者の研究が挙げられてるけどちょっと待ったぁ!これあんま有効じゃないよってツッコミ入ってるからね。むしろ男の採用が増えるのでは的な。
・「他の人に代替可能じゃん、俺の価値って一体」みたいな実存的疑問は完全に解消されたな!そうであるからこそフレキシブルに働けるわけで。
・ロボットやAIが進展してくるとそういうフレキシブルな職が減っていくんじゃないの感はある。
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2021年11月23日

都市は感染症への対応が求められている

感染症に直面する米国の都市が抱える問題点を示している本が出ている。

“Survival of the City”, Edward Glaeser and David Cutler著

Survival of the City: Living and Thriving in an Age of Isolation - Glaeser, Edward, Cutler, David
Survival of the City: Living and Thriving in an Age of Isolation - Glaeser, Edward, Cutler, David

都市は創造性の塊だ。でも、内部の人を守り外部の人を放棄する傾向がある。コロナの影響でリモートワークが広まり社交も減ってしまった。本書は都市生活の存続と繁栄に必要な条件を探っていく。重要なのは説明責任を果たす政府と都市の成長を阻む規制の撤廃と学ぶ謙虚さだとみている。
疫病のせいでアテネはスパルタに負けた。ローマ帝国でも起きた。共同体から病人を隔離したり、家族で隔離したり、共同体の周りに防壁を作ったり、病原の周りに防壁を作ったりして人類は抵抗してきた。病気の蔓延を防ぐには正しい医学知識と有効な政府が必要だ。WHOは感染症を早期に抑え込める組織ではない。NATOのように、構成国を少数にして目的と統制を明確化し、科学を重視し、潤沢な予算のある国際組織が新たに必要である。
黄熱病やコレラと闘う上で上下水道の整備は政府がとれる非常に有効な対策である。隔離を担当する法の執行者は効果を上げるためには信頼されている必要がある。人と野生動物との接触を減らすために国際的な取り組みを作るといい。貧困国で疫病が蔓延すると結局は先進国にも被害が及ぶのだから、水道整備などを援助するのは先進国の利益にもなるだろう。
平均寿命は発展している都市の住民の方が長い。これは年収が低い人についても同様に言える。都市化するにつれ人は運動をせずともまた時間をかけずともカロリーを得ることができるようになった。フライドポテトのような大量生産品がすぐに手に入るようになり人は誘惑に負け肥満になっている。薬品会社はオピオイドの新製品を開発するたびに安全だという虚偽の主張をしてきており、薬物中毒者を大量に生み出した。教育程度は肥満にならなかったり薬物や酒や危険なセックスを避けたりと健康に直結するが、健康に悪いことを知ることができるというよりは我慢強さや健康促進製品を買う余裕を生んだりするという影響の方が大きい。感染症を避けるにはそもそも健康であることが重要であり、そうなるような行動変容が求められている。
アメリカは膨大な予算を医療制度のために割いているが効果は芳しくない。これは、私的な医療に焦点を置き、健康促進ではなく病人をケアすることを重視し、多くの保険未加入者がいるため。前もって感染症に対応するシステムを組んでおく必要がある。テストや封鎖を素早く行う能力も重要。
黒死病は生き残ったものを豊かにした。独占者は競合を潰すために規制を利用することがあるが、紡績工場の安全規制はその初期の例。滅菌と冷凍とパッケージ技術の向上のおかげで都市は拡大することができた。スペイン風邪は経済に悪影響をほとんど及さなかった。コロナと違いは、その頃は農場と工場で働く人が多くまた人々は必需品を消費していたこと。いまは対面が重視されるサービス業が中心であり疫病の影響をモロに受けるのだ。コロナ前からも米国の起業は減っている。第三者から規制の費用便益分析をして不要な規制は撤廃したり、規制を担当する政府の部局を一本化する必要がある。
技術革新には、車やテレビのように人口密度が高いことの魅力を減らすようなものもあれば、蒸気機関車や高層ビルやエレベーターのような増やすようなものもある。19世紀は後者が多く20世紀は前者が多かった。情報通信業が発展しても人は都市に住んだままだが、これは人と話すとアイデアが生まれたりするしまた楽しいため。テレワークは生産性を伸ばすが生産性の低い労働者を引き寄せる。すでに住んでいる人を守り引っ越してくる人を防ぐような規制を止めることが発展には必要。
ロサンゼルスのボイルハイツは米国都市の持つ問題を示す良い例。19世紀末に優れた市長がいて公園や教会や学校が建ち人気となった地域だ。自動車が発展して移動しやすくなってからは富裕層がそれまで使っていた古い住居を利用する多くの低中所得者が流入した。そして実質的な人種的隔離が起きた。優れた政治家と運動家が生まれ、ヒスパニックの多い地域としては収入は恵まれるようになった。しかし地下鉄が通るようになってからは移動して来ようとする美術館と、それはジェントリフィケーションであるとみなす住民との間に激しい対立が生まれている。しかしこれは新しい建築に対する規制が生んだ悲劇であり、真の敵は制度である。アメリカ内で引っ越しは減っている。フリーライド問題は小数名の間では解決できるものなのでそのような少数の政治集団が生まれる。この集団は既存の人員を守り新参者は防ぐ。これがまさに米国の都市で起きていることだ。
収監と犯罪発生の間には三つの関係がある。まず、収監を恐れて犯罪をしなくなる可能性があること。次に、犯罪を犯しやすい人間を閉じ込めること。最後に、牢の外で合法な職に就くのを諦め犯罪を犯すようになることだ。3ストライク法は確かに犯罪は予防しているがその費用はかなり高い。そして犯罪者を閉じ込めれば犯罪発生も減る。バランスが重要だ。レイ・ケリーというNYPDの能吏はパトロールを増やしてDV被害を減らし、テロの対策も優れていて賞賛された。しかし彼が導入した停止と捜検(stop and frisk)という方法はあまり効果を上げていない。犯罪が起きやすいところを重点的に警護するのは効率的だが、方法が良くないということだ。警官の組合は内部者を守るように動き、問題のある警官でも守ってしまう。しかし警察の予算を削っても結局悪影響が大きいのは貧しい人だ。治安と尊厳を守るよう明確な指標を導入していく必要がある。教育制度は警察よりもその目的を明確化するのは困難だ。人口密度が薄かったり都市の中心から離れていたりと優れた環境で育つほどのちに高収入になれ、教育は重要だ。しかし優れた教員や学校を表彰しようとテストを行っても教師により不正がなされるだけでうまくいかない。職業訓練を組み込んだりしていくと良いのかもしれない。
感染症に対応する科学的な国際機関を組織し、慢性病よりも感染症に主眼を置いた公衆衛生への予算を作りすぐにワクチンを作り広める公的機関を作り、感染症の犠牲になりやすい貧困者を助けるような教育改革を行い、企業と手を組み職業訓練をするような学校を試したり、公正な法機関を作ることが米国には求められている。都市は希望の源であり人々の強さを示す場所なのだ。

・一級の都市経済学者と医療経済学者が共著しているだけあって最新の研究を随所に盛り込んでいるため、細部は読んでいてとても面白い。公衆衛生の歴史とかも無駄がない。
・でもコロナを意識しないで書いたほうがよかったのでは。まとまりに欠けるし提言として上がっているのも普通だなあ…というのが正直な感想だった。BLMの件とか直接的には感染症関係ないやん!
・どういう教育をすれば成績が伸びるのかという点について一致した意見ないのね。意外〜!国じゃなくて地方が責を負っているアメリカの制度はなかなか大変そう。
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2021年11月08日

判断におけるノイズを減らしていこう

Daniel Kahneman, Olivier Sibony, Cass R. Sunstein, “Noise: A Flaw in Human Judgment”

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人間の判断にはバイアスとノイズが混ざりがちだ。本書は後者に焦点を当て、解決策を探る。

スクリーンショット 2021-11-08 21.09.02.png

図で、Bチームは狙いが左下に寄りすぎている。これはバイアスであり、カーネマンの前著のファスト&スローが取り扱っている。Cチームは概ね真ん中を狙っているけど、ばらつきが大きい。著者たちはこれをなんとかしようとしている。

(要約)
判決はその日の温度や贔屓チームの試合結果や誕生日といったノイズに影響を受ける。似た犯罪の事例でも下る判決は裁判官によってかなり異なる。これは公平ではない。ガイドラインを作るのは解決策ではあるが、個々の事例を見て裁判官に裁量を与えるべきとする反対意見も根強い。
保険引受人や損害査定人は額を正しく付けなくては会社に損害をもたらす。保険会社のCEOたちはそのばらつきは10%と推測していたが監査実験をしたところ実際には55%ものばらつきがあった。好みや科学的解決策を探る場合は多様性は好ましいがこの場合ノイズは損を生むだけ。誤差同士が打ち消し合うわけではないのだ。このシステムノイズは組織が調和を好み異議を減らそうとすることからきている。
一度きりの決定というものもある。これにもノイズはつきもの。繰り返す決定が一度きりと捉え、ノイズを減らす方法を同様に受け入れるのがいいだろう。

判断は不確実なことについて、また賛同が必要なことについてなされるものだ。検証可能であってもなくても判断はなされるものであり、個人の内省で一貫性があるとされたとき判断が生じる。検証可能な事柄については判断とその結果を比べれば評価ができる。検証不可能であっても、その判断の過程を見ることで評価ができる。多くの事例について同じように判断できているか、論理性や確率論を無視していないか確認できる。判断には予測にまつわるものと評価にまつわるものがある。ノイズは不公平を生む重大な問題だが、ノイズ自体は測ることができる。
誤差を測るには平均自乗誤差を使うといい。これはバイアスの2乗とノイズの2乗の和であり、両者は等しく重要だ。評価の判断は予測の判断を含むことがあるが、別個の問題として予測は正確に下すことを心がけるべき。
複数の個人が同一の事案に対してくだす判断のばらつきをシステムノイズと呼ぶ。仮想的に被告のプロフィールを作り複数の裁判官に量刑をさせるというノイズ監査という調査をするとこれがわかる。違う裁判官は平均的な量刑も違っており、このばらつきをレベルノイズと呼ぶ。保守的な判事は厳しい判決をするという具合に裁判官個人の特徴であり被告とは関係がない。特定の事案について裁判官が判断にばらつきをもつときこれをパターンノイズと呼ぶ。優しい裁判官でも常習犯は厳しく取り扱ったりという具合に、偶然ではなく同じことが起きたら繰り返されるノイズだ。システムノイズはこの二種のノイズの総和となる。
疲れや天気や気分などで生じる判断のばらつきを機会ノイズと呼ぼう。多くの人に推定させれば精確な推定になるという話があるが、これは個人の判断についても成り立つ。同じ推定を時間を空けて二度やらせれば、その平均はより精確になる。最初の推定が間違っていると仮定させるなどすればもっと精確になる。明るい気分だと、先入観で決めることが増え、中身のない言葉に踊らされるようになり、功利主義的に振る舞うようになる。人はいつも同じではないのだ。機会ノイズで説明できるノイズはそこまで大きくはない。
人の判断は他の人の判断から影響を受ける。DL回数が多い音楽はDLされがちになる。実験者が最初のDL数を操作しても最良曲は結局は人気が出るがそうではない曲はこの影響が大きい。政治的意見やコメントの質の良し悪しでも同じことが起きる。何かの候補を順に選んでいく場合、情報カスケードが生じる場合がある:2番目の人は1番目の人が選んだからという理由で同じ候補を選び、その後の人も同様に振る舞う。ふさわしくない候補だと思っていてもその情報が確定ではないと判断したりあるいは和を乱すと思われたくない場合これが生じる。集団が判断する場合、分極化が生じることがある。陪審が話し合うほどその判断はより厳しいか甘いものになる。集団のノイズを減らすにはこれらを考慮する必要がある。

リーダー選びなどではうまくいきそうな候補を予測するという判断が必要になる。人物像を考えて色々な特徴にその都度複雑な重み付けをして結果を示すことを臨床的判断と呼ぼう。一方、重回帰式では色々な特徴に対しいつも同じ重み付けをする。これを機会的判断と呼ぼう。臨床心理士の下す判断は機械的判断に全く及ばない。そして、臨床的判断をあたかも機械的判断としてモデル化すると、そのモデルの方が精確な判断を下せる。これは、機械的判断はその場に応じた調整を無くし、そしてノイズがなくなるからだ。
全ての変数を同じように重み付けるような単純な規則でもうまく予測できる。これは、ノイズがなく、また珍しい例がサンプルに含まれていてもそれに左右されないからだ。データが多ければ機械学習によるアルゴリズムは人間より良い判断を下せる。これは珍しいが決定的な場合を見いだすのが得意だ。人はアルゴリズムが完璧であることを求めすぎているあまり一度でも間違えると許せなくなってしまい、信じるのをやめてしまっている。
人は自分で下した判断について確信を持ってしまう。なぜかはわからないがこれが正しい、という内的な感覚だ。しかし、判断の時点では知りようもないことがあったり、知り得たかもしれないけど知れなかったことがあったりする。これらを客観的無知と呼ぼう。これは予測する期間が長くなればなるほど大きな存在となる。機械的な判断は臨床的判断よりも優れてはいるものの客観的無知のせいでそこまで良くはならない。内的な感覚に伴う報酬を手放したくないため機械的な判断に頼ることをしなくなるのだ。
人の行動を予測するのは困難で、機械学習ですらあまりうまくいかない。普段の出来事は完全に予測できるわけでも真に驚くべきことでもなく、説明を要しない。自ずから明らかに思えてしまう。理由を後から思いつくのは簡単なのだ。あり得そうかどうか考えるという統計的思考が必要なときでも因果的思考で満足してしまいノイズを見失ってしまう。
人には認知バイアスがあるが、全ての間違いをバイアスのせいにするのはやめ、それが特定できる場合にのみバイアスという言葉を使おう。基準率を無視するなど答えるべき問いを簡単な問いに転換してしまうというバイアスがある。また偏見がある場合それに沿って証拠を並べるというバイアスがある。そして印象をすぐに形成しそれに沿っていない証拠を捨ててしまうというバイアスもある。人はそれぞれバイアスの度合いが異なるため、ノイズも生まれる。
雨が降るのがどれだけ確からしく思えるか、など度合いを求めるのをマッチングと呼ぶ。これはシステム1が行うような即時処理で、7より多く細分化されると間違いが増えていく。これを避けるには面倒でも一つ一つ比較して順位付けする必要がある。
事件の被害者がいるとして、それを聞いた人に怒りの度合いとどれだけ罰されるべきかの度合いと賠償額を聞いたとする。怒るほど罰されるべきだと考えるようになる。罰には上限があるのでそこまでばらつかないが賠償額はばらつきが大きい。参照点が一度決まればそれよりひどい事案については比例して賠償額が大きくなる。しかし米国では個々の事案は他の事案を参照してはならないとされている。ノイズを減らすには賠償額のように曖昧なはかりを使うのをやめ、絶対額ではなく相対的な額を決めるといい。
一貫した説明ができるだけではなくその他の説明では不十分なときに自信を持って判断できるだろう。違う人が同じ人を評価すれば違う判断が下される。人の個性はよく賞賛されるが、判断についてはノイズの元となる。
システムノイズを構成するレベルノイズとパターンノイズのうち、大抵は後者の方が影響が大きい。甘すぎる採点者や厳しすぎる判事はそうとわかりやすいので是正しやすいが、それだけではあまりノイズは減らせないということだ。そしてパターンノイズを構成する機会ノイズと安定パターンノイズのうち、後者の方が影響が大きい。判断の個性から生じるノイズが大きいのだ。そして因果的な説明にとらわれるとノイズは見えなくなってしまう。

専門性が検証可能な分野とそうではない分野とがある。知能が高い人はよりノイズの少ない判断を下せる。また、持論に反する証拠でも喜んで受け入れるような考え方をする人ほど優れた判断を下せる。
事前または事後にバイアスを減らすことは可能だ。自動的に加入したり計画に予備をもたせたりすればいい。しかしどのバイアスが生じるかはわからないのでこれらの方法には限界がある。他人の間違いは自分のそれよりも指摘しやすいから、第三者に随時確認してもらうといいだろう。ノイズは予測できないので予防するといい。
指紋照合も人の判断でなされるため、ノイズは不可避だ。犯人を示唆されると影響を受けてしまうし、犯人でない人を犯人だと誤認しまう率は一般人が思っているよりは高い。ノイズが生じうると捉えることが重要。必要な情報を順繰りに明かしていき、指紋が誰のものかを事前に予測しておきそれを変えた時はしっかり文書に残しておき、複数の人が鑑定するならそれぞれ独立に行うといい。
予測が職務の人のうちで2%は非常にうまく予測する。彼らは知能が高いだけでなく、新しい情報が手に入るようになったら自分の信念を絶えず更新しているのだ。確率的思考を訓練し、チームにまとめてお互いに討論させ、予測の上手い人を選抜するとノイズが減る。多様で、チーム内に異論が多いほどうまくいく。
医学もノイズからは逃れられない。がん診断や心臓病の診断で違う医者が同じ結論を出す確率は高くない。また、疲れなどの機会ノイズに影響も受ける。ガイドラインはノイズを減らすのに有効。精神科は特にばらついている。
企業人事の360度評価もノイズだらけだ。とはいえ社員を強制的に順位づければノイズは減る。これが有用なのはあくまで相対的な成績が重要であり、真の成績の分布を表していると考えられるときだけだ。採点基準は具体的な行動にアンカーづけられる必要がある。
採用はノイズだらけだ。文化が近かったり見た目のいい応募者を採用するバイアスもある。採用者は、第一印象に引きずられすぎたり、応募者が一貫した答えをしていると思いがちになる。ノイズを減らすには構造化するといい。まず、一般的な知能・リーダーシップ・職務についての基礎知識といった要素に分解する。そしてそれぞれの要素についての情報は独立して収集する。そして全体的な判断をするのは最後にとっておく。
経営判断もまた構造化するといい。プロセスを明確にすると討論が活発化しノイズが減る。
ノイズを減らすには費用がかかる。アルゴリズムに頼るのでは一人一人を人間的に扱っていないという反論を受けがちだ。人種や性別に相関する変数を使ったり、バイアスのあるデータを使ってしまったりするとアルゴリズムはよりバイアスを生じる。しかしノイズもバイアスも減らし、不公平な扱いも減らすアルゴリズムを構築するよう向かうことはできる。
ノイズを減らす対策への反論として、個別に扱われる尊厳があるという主張がなされる。しかし不公平も重要である。また道徳は常に変化しておりノイズがある場合それを許容できるという主張もある。しかし変化する価値に対応するルールを決めることはできる。明確なルールを決めるとそれを実質的には侵害してしまうやり方を思いつく人が現れる。裁量があるほどやる気が出るという主張もある。
基準を使うか規則を使うかは場合による。基準はその場に即した行動を選べるがノイズをうむ。どちらが間違いを生むかを考慮すべき。ノイズの存在を忘れて規則を使わないことが起きがちだ。

(感想)
・判事ごとの判断にものすごいばらつきがあるという事実自体が衝撃的だった。先例にならうものだと聞いているのであんまり裁量がないのかなと思っていたけど。国によっても違ったりするんだろうか。
・ノイズがどれくらいあるか確認する実験がおもろい。仮想または実在の人物像を違う人に見せて同じ結論がくだるか見ている。なんなら同じ人に時間をおいて同じ検査をしている。俺がやられたらおちょくってるのかと思うかもw
・知能、ある程度高ければそれ以上はあんまり差がないのかと思ってたけどそうではないというのは驚きだった。知能の上位99%と99.9%には大きな差があるとのこと。グエー。
posted by Char-Freadman at 21:27| 北京 | Comment(0) | ぶっくれびゅー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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