
The Wealth of Religions: The Political Economy of Believing and Belonging - Barro, Robert J, McCleary, Rachel
宗教は現代でも重要である。宗教経済学は教義の中身には立ち入らないものの、どのように宗教が進化し、競争し、富を生み、日常生活に影響するかを考察する科目だ。
収入や教育や都市化や長命は信仰心を弱めるという世俗化仮説がまず示される。宗教もまた市場であり、国教があると宗教の多様性が失われ参加率が低くなる傾向にはある。とはいえ世俗的な活動を妨げることで宗教活動に参加させることもありうる。現代では教会への参加は低くなり、天国や地獄があるという信仰も失われてきている。共産圏では信仰心は薄くなっている。
ウェーバーはプロテスタントの倫理が経済を発展させたと主張した。実際データを見てみると天国や地獄の存在は経済を成長させる要因になるが教会への参加は逆の要因になっている。社会的繋がりよりは信念が経済発展をもたらしているようだ。19世紀のプロイセンやスイスをみるとプロテスタントの地域は教育程度が高くなっており、人的資本の開発を通じて経済成長に繋がっていると言える。
イスラム系国家は11世紀までは科学貢献に優れていたが、それは知識階級が大いに討論し合っていたからであった。しかし法や規制がその環境を壊してしまい、神学校さえ権力者の顔色をうかがうようになってしまった。相続法は資本の蓄積を阻害し、信用市場は規制され、法人は作られなかったのだ。このため西洋に遅れをとることとなった。イスラムに対抗しようとカトリックとプロテスタントが手を結ぶこともあった。メッカ巡礼はムスリムの間で女性の権利を認めることに繋がるが、家父長制を疑うことには繋がらない。断食は満足度は高めるものの経済活動は阻害する。
ある国で主な宗教に帰依している人が多いほど国教は生じやすくなる。人口の多くがムスリムの場合は、たとえ宗派が分かれていても国教が生じやすい。これは、政治制度もまた宗教権威の延長と捉えられているため。トルコに国教がないのは異例の事態。経済環境は国教があるかどうかとは関係がない。国教は非常に長く続く。
宗教をクラブとして捉えると見えてくる点は多い。加入するに費用がかかるのはやる気のある人員を揃えたいから。フリーライダーを防ぐため自己犠牲が必要とされることもある。メンバーは同一的なため相互に援助しやすい。チベット仏教のゲルク派は様々な宗派が競争する中でのし上がってきたかつては暴力に長けた派閥であり、この説明の例にふさわしい。
列福は非常に時間のかかる過程だ。列聖には奇跡が二つ認定される必要がある。かつてはイタリア及び西欧出身者が多かったが次第に東欧や北米などその他の地域からも選ばれるようになってきている。また女性や平信徒も選ばれている。ヨハネパウロ2世は非常に多くの人を列福し列聖した。これはプロテスタントに対抗するためだ。特にラテンアメリカでその傾向が顕著となる。また無宗教への対抗でもある。政治的な人物も殉教者として扱われたり新しい動きがある。他の宗教における聖人のデータとも組み合わせ分析を進めると良さそうだ。
発展に効くのは信仰なのかそれとも何かに所属しているという感覚なのか、それとも宗教団体が提供する教育機会なのかなど細かく見ていくといいだろう。またどのように広がっていくかを調べてもいい。交易路に近いほどイスラム教の影響は薄くキリスト教の影響は濃くなっている。宗教と科学は互いに排他的ではない。宗教は国から指定されるのではなく自由に競争できるときに人から支持される。近年、人はしばしば改宗するし宗教団体に加入する理由も信仰心からではない。様々な研究が可能だ。
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・母校の遠い創設者が列福されたのは俺が入学したおかげとか思ってたけどそうじゃなくて布教の一環だったとは!