
The Anatomy of Racial Inequality (The W. E. B. Du Bois Lectures Book 4) (English Edition) - LOURY, Glenn C.
黒人差別はアメリカで長く続いている。以下三つの前提のもとこれを分析するのが本書の狙いとなる。1.人種というのは人工的区分であり生物学的には正当化できないヒトの部分集団である(構成主義)。2.黒人が社会において持続的に不利な立場にあるのはヒトが人種を本能的に不平等に扱うからではなく社会的な理由から(非本質主義)。3.黒人が異質であるという認識は奴隷制の歴史によりアメリカ人の心に埋め込まれている(染み込んだ人種的烙印)。著者は政治的歴史的社会的にアメリカで独特の地位を占め、アメリカ社会固有の経済的政治的制度において過酷な取り扱いの影響に置かれそしてそれに反応してきた集団として黒人に焦点を当てている。
社会環境を理解するために情報を得て分類するのが人というものなので、出会う相手を分類すること自体は認知的な活動に過ぎず規範的な活動ではない。人種を以下のように定義する。世代をこえ受け継がれる身体的特徴を持つ集団であり、その特徴は他者から見つかりやすく変化させるのは困難であり、社会において意味を持つもの。この身体的特徴は歴史的な文脈で意味を生じてきたものだ。科学的には人種という裏付けがなくともこの分類に沿って違う行動を取っているならその主観的な認識自体が重要となる。迷信でもないし道徳的に間違っているわけでもない。自己実現的ステレオタイプというものがある。これは統計的な一般化であり、ある集団に関して正であるという理由はあるものの、集団の一員については真偽の定まらない命題のことだ。観察者はこの一般化に従って行動する結果さらに最初の偏見を強化するということになり自己実現的となる。例えば黒人が金を返済しないと統計的に正しい偏見を持っているとしよう。でも危機になっても黒人が猶予をもらえないのかもしれない。責任感がないわけではないのに証拠はそう示すことになり誤解したままとなろう。限られた情報の中で推測を行い、個人の行動にフィードバック効果があり、そして均衡では信念と行動が合致してしまっている。例えば黒人は努力をしないと雇用者が考えており、研修期間後に使い続けるか決めるとしよう。このとき研修期間に黒人がミスをすると偏見どおり怠惰だと判断されて解雇されやすくなろう。ミスを少しでもするとクビになるので黒人の方でも努力をする気が無くなるだろう。そしてこれは最初の偏見を強化することになる。違う例として、タクシードライバーは強盗を恐れ若い黒人を載せないとしよう。他の交通機関を使うので長い時間待つ黒人は強盗をしたい人だけとなろう。逆選択が生じてしまうのだ。悲観的な期待に沿った運転手の行動がこの結果を生んでいる。また、営業が黒人は自動車に対し高い留保価格(それ以上だと取引しないことになる価格)を持っていると考えているとしよう。このとき他の店に行っても同じように高い値段がつくと黒人は予想し高い価格を受け入れるだろう。そして実際に留保価格が高くなる。黒人と白人に同じような入学基準を課すと十分に黒人が入学できないと考えているとしよう。すると黒人学生は努力しなくても大学に入れるようになると考えるだろう。仮に同じような成績を挙げられるとしても自己実現的な予想となってしまう。もちろんこれだけではない。また行動主体について道徳的な判断を下してはならない。なぜ黒人ばかり損をしているのかというと歴史的経緯のせいだ。誰かが何かすべきとも思うかもしれない。多くの相手がいて各個人は何をやっても人口上の特徴を変えられない競争的環境と変えられる独占的環境があろう。後者なら自分の行為を変えれば確かに変化は起きけど前者だと結果に変化は起きない。たとえあるタクシードライバーが止まっても強盗されるだけだ。後者なら自分の予想が正しいのか実験して確かめるのは自分の利益とすらなるかもしれない。でももし本質論に囚われていたら実験しないかもしれない。学習は困難なのだ。分類と推測とは分けて考えるべき。分類は質的な枠組みでありこれに沿ってデータが集まる。推測はデータに基づく量的な計算だ。ステレオタイプは推測に基づくもの。そして実験による学習は分類に属するものだ。認知的な囚人となってしまっていている。気取った話し方やおめかしなどその他の多くの指標を使うということはあり得よう。俺は奴らとは違うという具合に分断と離脱が生まれるだろう。もちろん社会構造のせいでありこの離脱者を叩くのは不適切だ。自業自得だということになり平等化に向けての政治的な熱意は薄れることになる。規範的な側面より認知的な側面に焦点を当て、人が社会的情報をどう考えているかにつき考察するのがいい。
他者から悪く判断される身体的な特徴を持った人たちについて分析したゴッフマンは二つのアイデンティティを区別した。一つは外から与えられるもので、これは社会的に構築され社会的な意味がその見た目に加えられる。もう一つは内から形成されるもので、これは実際のもので客観的に生きた歴史として出来上がる。2つの場合を考えよう。まずある人種集団が均一的で誰もが1割の確率で犯罪する場合。次にある集団が不均一的で9割の人は犯罪をしない善人で1割はいつも犯罪をする悪人の場合。事実が後者でも前者を信じている法執行官は、外から与えられた人種という枠組み以外で分類する方法を見つけて頻度を確かめないと自分の間違いに気づけない。でも学習に価値がないと考えてしまってそのままになるだろう。実験しない限り間違った信念はそのままだ。黒人は劣ったものであるという意味づけの歴史的源泉はアメリカの奴隷制にある。この社会的認識は現在まで続いており、囚人が黒人だらけになっていても貧困層が黒人だらけでも黒人がゲットー化していても人々は気にもとめず政治的に変えねばならないという声が起きにくくなっている。男は暴力的だから収監されやすくても当然という暗黙の同意と同じように働いているのだ。このような社会的認識の偏向が人種問題を考察する上での鍵となる。差別には二種類ある。一つは契約上のもので取引や雇用など公的な付き合いにおいて生じるもの。もう一つは人付き合い上のもので私的な関係において生じるもの。公的介入は前者ではできるが後者ではできない。黒人は社会的な認識の偏向により後者で不利益を被っており、連帯するといいかもしれない。人は一人で存在するものではなく付き合いにより育まれるものであり、後者で不平等があると技能の習得においても不利となる。
社会正義について2つの考え方がある。一つは人種を問わないようにしようというもの。これは過程に関するもので人種により扱いを変えないようにするという方針で自律と公平を重視し歴史は考慮しない。もう一つは集団の現状に焦点を当て、過程のみならず結果も考慮しどのように不公平が生まれたかを酌量するという方針だ。リベラリズムは自律的な個人を前提とするが、それは法や社会的な繋がりや経済的な関係の結果として現れるものだ。そして自信がなく異物であり自暴自棄となった個人はまた社会的に生まれるものだ。人種の不平等が起きた歴史の考慮に欠いている。不正義の歴史については補償の問題と解釈の問題がある。人種によらないことと人種に関係ないこととは違いがある。例えば学校上位10%に入学を認めるという基準は明らかに黒人に有利だが人種にはよらない基準である。道徳的に問題となるのは前者ではなく後者なのだ。正当性に配慮する裁判所は黒人を判事に選び、麻薬の売人はどの人種でも捕まるがその結果大量の黒人が投獄されている。人種が本当に道徳的に無関係なのかは学習環境で人種構成がどのようになっているか把握した上で決めることだろう。政策介入、政策評価、市民の構築という領域において社会正義は問題になりうる。人種によらないという視点が有効なのは一つの国を作ろうという最後の領域だけでだろう。
経済取引など公的な場での不当な扱いではなく私的な場での扱いを構造的に是正していくのが今後の課題なのだ。
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・race blindなだけでは不十分というのはまあわかった。でも肌の色だけじゃなくて例えば性差とかその他の社会的認識上の優劣の基準全部にそういう矯正持ち込んだらめちゃくちゃになりそうな気がするんだよね。