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現在、西洋はその他の地域に比べてずっと繁栄している。本書はこの例外主義を生んだ理由がヴォルムス協約にあると主張する。叙任権闘争の背景を描写し、ゲーム理論的分析を行い差の差の統計的分析で様々な証拠を見せてくれる。説明責任を果たす政府のもとで構造的に経済競争がなされるとその場所は繁栄するもので、何も不思議なことはない。どこの場所でもこの教訓を学べるとしている。社会制度と経済成長について考えたい人におすすめの一冊。
1章
ヴォルムス協約は三つの規約からなる。まず、カトリック教会のみが司教を指名できること。次に、神聖ローマ皇帝は指名された人物について受諾か拒否を選べること。最後に、指名が拒否された場合、その教区の世俗的支配者は受け入れられる司教が指名され就任するまでその司教区の収入を維持できることだ。
独英蘭ベルギーをみるとヴォルムス協約のもと世俗の支配者のために働いていた司教が多いほど現在でも経済的に繁栄している。
一人当たりGDPをみると西暦1000年には西洋は中東の後塵を拝していたが1500年には逆転している。1500年頃までは地域ごとの差はあまりないが2000年にもなるとその差は甚大となる。一見、西洋の人間が優れているように思えるかもしれないが長い歴史を見ればそうでないことがわかる。西暦1000年以降に西洋が特別になった理由は、皇帝と法王が政治的な競争相手にあったことだ。
2章
ビザンチン皇帝が信頼できる擁護者ではないと判断した教会はフランク族のピピンを支持し、その寄進により教皇領を得た。その後は布教よりも政治権力を得ることに腐心するようになり、縁故主義が蔓延った。支配者が権力の座に残るためには有効な支援者が必要だが、その人数が多いほど費用がかかる。支援者が受ける利益は二種類あり、永遠の救済などの公共財と、宗教的権威などの私的財とがある。必要な派閥が大きくなると二つのことが起きる。支配者は私的財ではなく公共財により引き付けておこうとする。そして、違う支配者によっても必要とされるようになるため、忠誠心が薄れる。教皇は教会を保護するような支配者を戴冠するようになった。
誰が司教を選ぶのか、司教の追放を正当化する理由は何か、誰が司教を免職するのかが重要となる。
教皇位の乱立に介入したハインリヒ3世は自らの影響下にあるスイトガーをクレメンス2世として擁立した。このため教会の側でも組織を改革する必要を感じたものがおり宗教会議を開くこととなった。そして、教皇を選べるのは教区で選ばれた司教だけであるという決定がなされた。
グレゴリウス7世は、教皇がその地位を維持するのに必要な支持者の規模を縮小した。これは部外者が教会や既存の教皇に干渉する危険性を減らすため。教皇と皇帝の力関係がどうなっていたかをみるには二つの方法がある。一つは、縁故主義がどれだけあったかであり、縁故主義があるほど教皇の力が強い。これはベネディクト9世以降、減っている。もう一つは、芸術に占める世俗的なものの割合だ。これはベネディクト9世以降増えている。
叙任権闘争は教皇になる権利を売り飛ばしたベネディクト9世に端を発した。教皇職を家族経営にするのはやり過ぎであり、神聖ローマ皇帝は教会の権力を制限しようとすることとなった。
3章
叙任権闘争は激しさを増し、カノッサの屈辱で頂点に達した。これを解決するための協約が英仏の王との間でまず結ばれ、そしてローマとの間にも結ばれた。その内容は、「司教が受け入れられると、収入は教会のものとなる。王が受け入れなければ司教は空位となり、収入は王のものとなる。」というものだ。司教を任命するという教会の権利は回復したが、その決定には世俗権力が絡むようになった。協約以前には司教の有無に関わらずその教区での収入は教会に流れていたがこれが変更された。これにより以下の三つの状況が生じた。まず、貧しい教区では、教皇のために働くような候補が選ばれる。これは、司教がいなくて得られる収入よりも居てもらったほうが王にとってはよく、それを見越して自分のために働く候補を教皇が選ぶから。次に、中程度の教区では、王のために働くような候補が選ばれる。それなりに収入が見込めるため王のために働かないような候補は拒否され、それを見越して教皇は王に従う候補を選ぶようになるからだ。最後に、非常に富んだ教区では空位になる。これは、司教がいるよりも大きな収入が王にとっては魅力的となるためだ。これらの結果から、世俗の支配者にとっては経済を発展させようという動機が生まれる。
4章
協定が有効であったのはアヴィニョン捕囚でフランスの影響下に置かれるまでである。協定前には破門は異端者に出されていたが、協定後は政治的理由により破門がなされるようになっている。交易路からの距離が近い地域、またはカロリーの高い農産物を収穫する地域を豊かとすると豊かな地域では協定後には世俗的な影響下にある司教が選ばれるようになっている。司教の任命を拒否した王に課す聖務禁止などの費用は、教会から離れるほど低くなる。実際、遠いほど世俗的な司教が増える。一方、ヴォルムス協約の影響下にない地域ではこのような差は見られない。世俗化は協定の締結後に始まっている。
5章
ヴォルムス協約後にはローマから遠く離れた地では世俗的な絵が増えた。王は経済成長を促進する動機を持ち、教皇は阻害する動機を持った。ヴォルムス協定の影響下にない地域では世俗的な司教と宗教的な司教のどちらのもとでも教区は同じように成長しているが、影響下にある地域では世俗的な司教の教区の経済はそうでない司教のものに対して成長している。この影響は現在に至っても消えていない。協定後の教皇には、資源を教区ではなく自らに集める動機が生まれた。このため各種の騎士団を設立した。労働に対して軽蔑していたのが変化したのはこの頃で、教会騎士は勤勉だった。教皇は司祭の婚姻を禁じ財産が教会に残るようにした。また高利貸しを禁止し経済的の拡大を阻害し、権力の安定を図った。実際禁令のあとは巨大な城の建設は止んでいるが教会の建設は依然されており影響があったことがわかる。これに対し王は財産権を守ったり神明裁判を廃止したりして対抗した。商業革命の影響は協定の元でどのような動機があったかによって変化する。経済が最も成長したのは、世俗的な司教がおりローマから離れたところであった。
6章
協定前は司教の有無にかかわらず教区の利益は教会のものとなったがこれは変更された。協定前は司教の空位は多かったが、協定後は貧しくローマに近い教区だけが高い空位率を示すようになった。これは教会が力を示すことができたのはこのような教区だけだから。協定後にフランスの富は伸び始め、富からして教会に反乱しそうな絶頂期にまさにアヴィニョン捕囚を行った。一方イギリスを見てみると、反逆しそうにもなかったにも関わらず教会から離れてしまったことがわかる。大分裂の後は教会は権力を集中させようとしたが、プロテスタントとの競争の中で次第に宗教的な存在へ変化していった。人口増加の時期にローマ近くには貧しい教区が増えているがこれは教会が力を振るおうとした結果。
7章
協定では、世俗の権力者がその教区という領域で主権を持つことを意味した。これはウェストファリア条約で各国家が領域内で主権を持つことが確認されたことの起源にあたる。戦争は国家を作るが、説明責任を果たす国家は作らない。ヴォルムス協約後には、王たちはその経済を発展させるために中小領主や商人などと交渉してしっかり働いてもらうようにする動機を持つようになった。こうして議会が生まれた。議会は戦争を減らし、実際に影響力がある。交渉はお互いに得になる。議会、特に課税や支出に関して発言権があるそれは王の在位期間を延ばす。王と法王の交渉は、次第に王と民衆との交渉へと変化したのだ。
8章
権力のありようは次第に変化していった。ヴォルムス協定の影響は今日にも残っている。当時協定下にあり富んでいた地域はそうでない地域に比べ今日でも経済的に繁栄し、民主的な政府を持ち、長生きし、透明な政府を持っている。またノーベル賞受賞者も多い。西洋の例外主義は、聖と俗の競争が秩序正しく制度化され、交渉の場で管理されることから生まれたのだ。説明責任を果たす政府のもとで構造的に経済競争がなされるとその場所は繁栄する。
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・ヴォルムス協約の内容についてこうやってまとめてるの、初めて見た!正しいのん?
・現在のノーベル賞受賞者まで影響があるって言われると話ができすぎているような気がしてくる。。。うーん。
・例外主義の起源を植民地時代まで遡るのがかの有名なAJR(AER, 2001)。そっから500年ほど遡ってきたな。もっっっっっっと行けるのでは?!新石器時代とかどうよ。