2021年11月23日

都市は感染症への対応が求められている

感染症に直面する米国の都市が抱える問題点を示している本が出ている。

“Survival of the City”, Edward Glaeser and David Cutler著

Survival of the City: Living and Thriving in an Age of Isolation - Glaeser, Edward, Cutler, David
Survival of the City: Living and Thriving in an Age of Isolation - Glaeser, Edward, Cutler, David

都市は創造性の塊だ。でも、内部の人を守り外部の人を放棄する傾向がある。コロナの影響でリモートワークが広まり社交も減ってしまった。本書は都市生活の存続と繁栄に必要な条件を探っていく。重要なのは説明責任を果たす政府と都市の成長を阻む規制の撤廃と学ぶ謙虚さだとみている。
疫病のせいでアテネはスパルタに負けた。ローマ帝国でも起きた。共同体から病人を隔離したり、家族で隔離したり、共同体の周りに防壁を作ったり、病原の周りに防壁を作ったりして人類は抵抗してきた。病気の蔓延を防ぐには正しい医学知識と有効な政府が必要だ。WHOは感染症を早期に抑え込める組織ではない。NATOのように、構成国を少数にして目的と統制を明確化し、科学を重視し、潤沢な予算のある国際組織が新たに必要である。
黄熱病やコレラと闘う上で上下水道の整備は政府がとれる非常に有効な対策である。隔離を担当する法の執行者は効果を上げるためには信頼されている必要がある。人と野生動物との接触を減らすために国際的な取り組みを作るといい。貧困国で疫病が蔓延すると結局は先進国にも被害が及ぶのだから、水道整備などを援助するのは先進国の利益にもなるだろう。
平均寿命は発展している都市の住民の方が長い。これは年収が低い人についても同様に言える。都市化するにつれ人は運動をせずともまた時間をかけずともカロリーを得ることができるようになった。フライドポテトのような大量生産品がすぐに手に入るようになり人は誘惑に負け肥満になっている。薬品会社はオピオイドの新製品を開発するたびに安全だという虚偽の主張をしてきており、薬物中毒者を大量に生み出した。教育程度は肥満にならなかったり薬物や酒や危険なセックスを避けたりと健康に直結するが、健康に悪いことを知ることができるというよりは我慢強さや健康促進製品を買う余裕を生んだりするという影響の方が大きい。感染症を避けるにはそもそも健康であることが重要であり、そうなるような行動変容が求められている。
アメリカは膨大な予算を医療制度のために割いているが効果は芳しくない。これは、私的な医療に焦点を置き、健康促進ではなく病人をケアすることを重視し、多くの保険未加入者がいるため。前もって感染症に対応するシステムを組んでおく必要がある。テストや封鎖を素早く行う能力も重要。
黒死病は生き残ったものを豊かにした。独占者は競合を潰すために規制を利用することがあるが、紡績工場の安全規制はその初期の例。滅菌と冷凍とパッケージ技術の向上のおかげで都市は拡大することができた。スペイン風邪は経済に悪影響をほとんど及さなかった。コロナと違いは、その頃は農場と工場で働く人が多くまた人々は必需品を消費していたこと。いまは対面が重視されるサービス業が中心であり疫病の影響をモロに受けるのだ。コロナ前からも米国の起業は減っている。第三者から規制の費用便益分析をして不要な規制は撤廃したり、規制を担当する政府の部局を一本化する必要がある。
技術革新には、車やテレビのように人口密度が高いことの魅力を減らすようなものもあれば、蒸気機関車や高層ビルやエレベーターのような増やすようなものもある。19世紀は後者が多く20世紀は前者が多かった。情報通信業が発展しても人は都市に住んだままだが、これは人と話すとアイデアが生まれたりするしまた楽しいため。テレワークは生産性を伸ばすが生産性の低い労働者を引き寄せる。すでに住んでいる人を守り引っ越してくる人を防ぐような規制を止めることが発展には必要。
ロサンゼルスのボイルハイツは米国都市の持つ問題を示す良い例。19世紀末に優れた市長がいて公園や教会や学校が建ち人気となった地域だ。自動車が発展して移動しやすくなってからは富裕層がそれまで使っていた古い住居を利用する多くの低中所得者が流入した。そして実質的な人種的隔離が起きた。優れた政治家と運動家が生まれ、ヒスパニックの多い地域としては収入は恵まれるようになった。しかし地下鉄が通るようになってからは移動して来ようとする美術館と、それはジェントリフィケーションであるとみなす住民との間に激しい対立が生まれている。しかしこれは新しい建築に対する規制が生んだ悲劇であり、真の敵は制度である。アメリカ内で引っ越しは減っている。フリーライド問題は小数名の間では解決できるものなのでそのような少数の政治集団が生まれる。この集団は既存の人員を守り新参者は防ぐ。これがまさに米国の都市で起きていることだ。
収監と犯罪発生の間には三つの関係がある。まず、収監を恐れて犯罪をしなくなる可能性があること。次に、犯罪を犯しやすい人間を閉じ込めること。最後に、牢の外で合法な職に就くのを諦め犯罪を犯すようになることだ。3ストライク法は確かに犯罪は予防しているがその費用はかなり高い。そして犯罪者を閉じ込めれば犯罪発生も減る。バランスが重要だ。レイ・ケリーというNYPDの能吏はパトロールを増やしてDV被害を減らし、テロの対策も優れていて賞賛された。しかし彼が導入した停止と捜検(stop and frisk)という方法はあまり効果を上げていない。犯罪が起きやすいところを重点的に警護するのは効率的だが、方法が良くないということだ。警官の組合は内部者を守るように動き、問題のある警官でも守ってしまう。しかし警察の予算を削っても結局悪影響が大きいのは貧しい人だ。治安と尊厳を守るよう明確な指標を導入していく必要がある。教育制度は警察よりもその目的を明確化するのは困難だ。人口密度が薄かったり都市の中心から離れていたりと優れた環境で育つほどのちに高収入になれ、教育は重要だ。しかし優れた教員や学校を表彰しようとテストを行っても教師により不正がなされるだけでうまくいかない。職業訓練を組み込んだりしていくと良いのかもしれない。
感染症に対応する科学的な国際機関を組織し、慢性病よりも感染症に主眼を置いた公衆衛生への予算を作りすぐにワクチンを作り広める公的機関を作り、感染症の犠牲になりやすい貧困者を助けるような教育改革を行い、企業と手を組み職業訓練をするような学校を試したり、公正な法機関を作ることが米国には求められている。都市は希望の源であり人々の強さを示す場所なのだ。

・一級の都市経済学者と医療経済学者が共著しているだけあって最新の研究を随所に盛り込んでいるため、細部は読んでいてとても面白い。公衆衛生の歴史とかも無駄がない。
・でもコロナを意識しないで書いたほうがよかったのでは。まとまりに欠けるし提言として上がっているのも普通だなあ…というのが正直な感想だった。BLMの件とか直接的には感染症関係ないやん!
・どういう教育をすれば成績が伸びるのかという点について一致した意見ないのね。意外〜!国じゃなくて地方が責を負っているアメリカの制度はなかなか大変そう。
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2021年11月08日

判断におけるノイズを減らしていこう

Daniel Kahneman, Olivier Sibony, Cass R. Sunstein, “Noise: A Flaw in Human Judgment”

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人間の判断にはバイアスとノイズが混ざりがちだ。本書は後者に焦点を当て、解決策を探る。

スクリーンショット 2021-11-08 21.09.02.png

図で、Bチームは狙いが左下に寄りすぎている。これはバイアスであり、カーネマンの前著のファスト&スローが取り扱っている。Cチームは概ね真ん中を狙っているけど、ばらつきが大きい。著者たちはこれをなんとかしようとしている。

(要約)
判決はその日の温度や贔屓チームの試合結果や誕生日といったノイズに影響を受ける。似た犯罪の事例でも下る判決は裁判官によってかなり異なる。これは公平ではない。ガイドラインを作るのは解決策ではあるが、個々の事例を見て裁判官に裁量を与えるべきとする反対意見も根強い。
保険引受人や損害査定人は額を正しく付けなくては会社に損害をもたらす。保険会社のCEOたちはそのばらつきは10%と推測していたが監査実験をしたところ実際には55%ものばらつきがあった。好みや科学的解決策を探る場合は多様性は好ましいがこの場合ノイズは損を生むだけ。誤差同士が打ち消し合うわけではないのだ。このシステムノイズは組織が調和を好み異議を減らそうとすることからきている。
一度きりの決定というものもある。これにもノイズはつきもの。繰り返す決定が一度きりと捉え、ノイズを減らす方法を同様に受け入れるのがいいだろう。

判断は不確実なことについて、また賛同が必要なことについてなされるものだ。検証可能であってもなくても判断はなされるものであり、個人の内省で一貫性があるとされたとき判断が生じる。検証可能な事柄については判断とその結果を比べれば評価ができる。検証不可能であっても、その判断の過程を見ることで評価ができる。多くの事例について同じように判断できているか、論理性や確率論を無視していないか確認できる。判断には予測にまつわるものと評価にまつわるものがある。ノイズは不公平を生む重大な問題だが、ノイズ自体は測ることができる。
誤差を測るには平均自乗誤差を使うといい。これはバイアスの2乗とノイズの2乗の和であり、両者は等しく重要だ。評価の判断は予測の判断を含むことがあるが、別個の問題として予測は正確に下すことを心がけるべき。
複数の個人が同一の事案に対してくだす判断のばらつきをシステムノイズと呼ぶ。仮想的に被告のプロフィールを作り複数の裁判官に量刑をさせるというノイズ監査という調査をするとこれがわかる。違う裁判官は平均的な量刑も違っており、このばらつきをレベルノイズと呼ぶ。保守的な判事は厳しい判決をするという具合に裁判官個人の特徴であり被告とは関係がない。特定の事案について裁判官が判断にばらつきをもつときこれをパターンノイズと呼ぶ。優しい裁判官でも常習犯は厳しく取り扱ったりという具合に、偶然ではなく同じことが起きたら繰り返されるノイズだ。システムノイズはこの二種のノイズの総和となる。
疲れや天気や気分などで生じる判断のばらつきを機会ノイズと呼ぼう。多くの人に推定させれば精確な推定になるという話があるが、これは個人の判断についても成り立つ。同じ推定を時間を空けて二度やらせれば、その平均はより精確になる。最初の推定が間違っていると仮定させるなどすればもっと精確になる。明るい気分だと、先入観で決めることが増え、中身のない言葉に踊らされるようになり、功利主義的に振る舞うようになる。人はいつも同じではないのだ。機会ノイズで説明できるノイズはそこまで大きくはない。
人の判断は他の人の判断から影響を受ける。DL回数が多い音楽はDLされがちになる。実験者が最初のDL数を操作しても最良曲は結局は人気が出るがそうではない曲はこの影響が大きい。政治的意見やコメントの質の良し悪しでも同じことが起きる。何かの候補を順に選んでいく場合、情報カスケードが生じる場合がある:2番目の人は1番目の人が選んだからという理由で同じ候補を選び、その後の人も同様に振る舞う。ふさわしくない候補だと思っていてもその情報が確定ではないと判断したりあるいは和を乱すと思われたくない場合これが生じる。集団が判断する場合、分極化が生じることがある。陪審が話し合うほどその判断はより厳しいか甘いものになる。集団のノイズを減らすにはこれらを考慮する必要がある。

リーダー選びなどではうまくいきそうな候補を予測するという判断が必要になる。人物像を考えて色々な特徴にその都度複雑な重み付けをして結果を示すことを臨床的判断と呼ぼう。一方、重回帰式では色々な特徴に対しいつも同じ重み付けをする。これを機会的判断と呼ぼう。臨床心理士の下す判断は機械的判断に全く及ばない。そして、臨床的判断をあたかも機械的判断としてモデル化すると、そのモデルの方が精確な判断を下せる。これは、機械的判断はその場に応じた調整を無くし、そしてノイズがなくなるからだ。
全ての変数を同じように重み付けるような単純な規則でもうまく予測できる。これは、ノイズがなく、また珍しい例がサンプルに含まれていてもそれに左右されないからだ。データが多ければ機械学習によるアルゴリズムは人間より良い判断を下せる。これは珍しいが決定的な場合を見いだすのが得意だ。人はアルゴリズムが完璧であることを求めすぎているあまり一度でも間違えると許せなくなってしまい、信じるのをやめてしまっている。
人は自分で下した判断について確信を持ってしまう。なぜかはわからないがこれが正しい、という内的な感覚だ。しかし、判断の時点では知りようもないことがあったり、知り得たかもしれないけど知れなかったことがあったりする。これらを客観的無知と呼ぼう。これは予測する期間が長くなればなるほど大きな存在となる。機械的な判断は臨床的判断よりも優れてはいるものの客観的無知のせいでそこまで良くはならない。内的な感覚に伴う報酬を手放したくないため機械的な判断に頼ることをしなくなるのだ。
人の行動を予測するのは困難で、機械学習ですらあまりうまくいかない。普段の出来事は完全に予測できるわけでも真に驚くべきことでもなく、説明を要しない。自ずから明らかに思えてしまう。理由を後から思いつくのは簡単なのだ。あり得そうかどうか考えるという統計的思考が必要なときでも因果的思考で満足してしまいノイズを見失ってしまう。
人には認知バイアスがあるが、全ての間違いをバイアスのせいにするのはやめ、それが特定できる場合にのみバイアスという言葉を使おう。基準率を無視するなど答えるべき問いを簡単な問いに転換してしまうというバイアスがある。また偏見がある場合それに沿って証拠を並べるというバイアスがある。そして印象をすぐに形成しそれに沿っていない証拠を捨ててしまうというバイアスもある。人はそれぞれバイアスの度合いが異なるため、ノイズも生まれる。
雨が降るのがどれだけ確からしく思えるか、など度合いを求めるのをマッチングと呼ぶ。これはシステム1が行うような即時処理で、7より多く細分化されると間違いが増えていく。これを避けるには面倒でも一つ一つ比較して順位付けする必要がある。
事件の被害者がいるとして、それを聞いた人に怒りの度合いとどれだけ罰されるべきかの度合いと賠償額を聞いたとする。怒るほど罰されるべきだと考えるようになる。罰には上限があるのでそこまでばらつかないが賠償額はばらつきが大きい。参照点が一度決まればそれよりひどい事案については比例して賠償額が大きくなる。しかし米国では個々の事案は他の事案を参照してはならないとされている。ノイズを減らすには賠償額のように曖昧なはかりを使うのをやめ、絶対額ではなく相対的な額を決めるといい。
一貫した説明ができるだけではなくその他の説明では不十分なときに自信を持って判断できるだろう。違う人が同じ人を評価すれば違う判断が下される。人の個性はよく賞賛されるが、判断についてはノイズの元となる。
システムノイズを構成するレベルノイズとパターンノイズのうち、大抵は後者の方が影響が大きい。甘すぎる採点者や厳しすぎる判事はそうとわかりやすいので是正しやすいが、それだけではあまりノイズは減らせないということだ。そしてパターンノイズを構成する機会ノイズと安定パターンノイズのうち、後者の方が影響が大きい。判断の個性から生じるノイズが大きいのだ。そして因果的な説明にとらわれるとノイズは見えなくなってしまう。

専門性が検証可能な分野とそうではない分野とがある。知能が高い人はよりノイズの少ない判断を下せる。また、持論に反する証拠でも喜んで受け入れるような考え方をする人ほど優れた判断を下せる。
事前または事後にバイアスを減らすことは可能だ。自動的に加入したり計画に予備をもたせたりすればいい。しかしどのバイアスが生じるかはわからないのでこれらの方法には限界がある。他人の間違いは自分のそれよりも指摘しやすいから、第三者に随時確認してもらうといいだろう。ノイズは予測できないので予防するといい。
指紋照合も人の判断でなされるため、ノイズは不可避だ。犯人を示唆されると影響を受けてしまうし、犯人でない人を犯人だと誤認しまう率は一般人が思っているよりは高い。ノイズが生じうると捉えることが重要。必要な情報を順繰りに明かしていき、指紋が誰のものかを事前に予測しておきそれを変えた時はしっかり文書に残しておき、複数の人が鑑定するならそれぞれ独立に行うといい。
予測が職務の人のうちで2%は非常にうまく予測する。彼らは知能が高いだけでなく、新しい情報が手に入るようになったら自分の信念を絶えず更新しているのだ。確率的思考を訓練し、チームにまとめてお互いに討論させ、予測の上手い人を選抜するとノイズが減る。多様で、チーム内に異論が多いほどうまくいく。
医学もノイズからは逃れられない。がん診断や心臓病の診断で違う医者が同じ結論を出す確率は高くない。また、疲れなどの機会ノイズに影響も受ける。ガイドラインはノイズを減らすのに有効。精神科は特にばらついている。
企業人事の360度評価もノイズだらけだ。とはいえ社員を強制的に順位づければノイズは減る。これが有用なのはあくまで相対的な成績が重要であり、真の成績の分布を表していると考えられるときだけだ。採点基準は具体的な行動にアンカーづけられる必要がある。
採用はノイズだらけだ。文化が近かったり見た目のいい応募者を採用するバイアスもある。採用者は、第一印象に引きずられすぎたり、応募者が一貫した答えをしていると思いがちになる。ノイズを減らすには構造化するといい。まず、一般的な知能・リーダーシップ・職務についての基礎知識といった要素に分解する。そしてそれぞれの要素についての情報は独立して収集する。そして全体的な判断をするのは最後にとっておく。
経営判断もまた構造化するといい。プロセスを明確にすると討論が活発化しノイズが減る。
ノイズを減らすには費用がかかる。アルゴリズムに頼るのでは一人一人を人間的に扱っていないという反論を受けがちだ。人種や性別に相関する変数を使ったり、バイアスのあるデータを使ってしまったりするとアルゴリズムはよりバイアスを生じる。しかしノイズもバイアスも減らし、不公平な扱いも減らすアルゴリズムを構築するよう向かうことはできる。
ノイズを減らす対策への反論として、個別に扱われる尊厳があるという主張がなされる。しかし不公平も重要である。また道徳は常に変化しておりノイズがある場合それを許容できるという主張もある。しかし変化する価値に対応するルールを決めることはできる。明確なルールを決めるとそれを実質的には侵害してしまうやり方を思いつく人が現れる。裁量があるほどやる気が出るという主張もある。
基準を使うか規則を使うかは場合による。基準はその場に即した行動を選べるがノイズをうむ。どちらが間違いを生むかを考慮すべき。ノイズの存在を忘れて規則を使わないことが起きがちだ。

(感想)
・判事ごとの判断にものすごいばらつきがあるという事実自体が衝撃的だった。先例にならうものだと聞いているのであんまり裁量がないのかなと思っていたけど。国によっても違ったりするんだろうか。
・ノイズがどれくらいあるか確認する実験がおもろい。仮想または実在の人物像を違う人に見せて同じ結論がくだるか見ている。なんなら同じ人に時間をおいて同じ検査をしている。俺がやられたらおちょくってるのかと思うかもw
・知能、ある程度高ければそれ以上はあんまり差がないのかと思ってたけどそうではないというのは驚きだった。知能の上位99%と99.9%には大きな差があるとのこと。グエー。
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2021年01月27日

教育方針の経済学

教育方針の経済学

子育ての経済学 愛情・お金・育児スタイル
マティアス・ドゥプケ&ファブリツィオ・ジリボッティ著

子育ての経済学:愛情・お金・育児スタイル - マティアス・ドゥプケ, Matthias Doepke, ファブリツィオ・ジリボッティ, Fabrizio Zilibotti, 大垣 昌夫, 鹿田 昌美
子育ての経済学:愛情・お金・育児スタイル - マティアス・ドゥプケ, Matthias Doepke, ファブリツィオ・ジリボッティ, Fabrizio Zilibotti, 大垣 昌夫, 鹿田 昌美

1970年代の親は反権威主義的でリラックスした子育てをしていたが、現代の親は習い事をさせ学校成績を気にするようになっている。教育方針は国や階級ごとに異なる。過去に人気だった体罰はここ数十年で忌避されるようになった。親の経済的動機に着目すればこれらの現象を解明できると本書は説く。

まず、育児方針を三つに分ける。一つ目は親が子に服従を要求しコントロールするという専制型。二つ目は自立を奨励する迎合型。三つ目は説得により子どもの価値観を形成しその選択に影響を与えようとする指導型。重要なのは、どの教育方針を採る親もみな子に対する愛情に優劣はないという仮定だ。1980年代以前は所得格差は少なく教育を受けなくても悲惨な人生にはならなかったため迎合型の人気が高かったが、格差が拡大すると教育を受ける利得が大きくなるため専制型や指導型の徹底的な教育方針の人気が高まったとみている。実際「タイガーマザー」「ヘリコプターペアレント」は経済格差が大きい国で人気であり、格差の小さい国々ではそうでもない。

社会階層が固定化していた頃は専制型の教育方針に人気があった。そのような社会にあっては自分の生きる道を子どもに見つけさせることができないというデメリットが薄いためだ。でも工業化社会になり自分の才能を見つける必要が出てきてからは専制型の人気は落ちた。それに代わり、子どものやる気を引き出そうという指導型が人気になっている。

男子と女子とでは育て方に違いがあり、文化的な影響が大きいとされている。でも本書は経済的な影響こそが差を生むと見る。技術進歩で体力が必要な労働への需要が減り認知能力と社会的スキルが求められるようになった。このためジェンダーによる教育内容の分断も埋まっていった(紡績など技術進歩がその逆を生んだ例もある)。

歴史を見ると、土地のあがりで暮らす貴族階級は余暇を重視し美意識を高めるような教育方針を取り、労働階級は労働倫理を埋め込むような教育方針になり、職人や商人など中流階級は忍耐力と計画性を重視するような教育方針を取っている。

試験など公的な教育制度が家庭内の方針に影響があることも国際比較でわかる。フランスや日本は大して格差が大きくないにもかかわらず厳しい試験があるから徹底的な教育方針になりがちなのだ。

教育制度の変更や累進的課税など公共政策で教育の格差を埋めることができるとみて楽観的に締めくくっている。子どもの未来は明るい!

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・安易に優劣をつけないというのが経済学的分析の強い魅力。本書でもそれは大いに発揮されている。子どもには怖い専制型の祖父も愛情あったなと懐かしく思い出した。孫には大甘だったし…

・日本の親は勤勉は重視せず想像力と自立を重視しているというのが意外だった。ヘンリック先生のWEIRDest Peopleでも日本は個人主義的と言っていたのとかぶる。腐っても技術大国、今後も世界にその存在感を出せそうだ。


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・実験やその他のうまい因果推論の方法が使えないためその点については若干弱い。でも最大限努力はしてるし著者の経験談も無理なく挟み込まれて読みやすくなっているから論文でなく本としてはとてもいい出来。教育って誰もが語りたがるテーマで、子どもを一流大学に入れた親が書いてたりする本とは一線を画している。育児指南本としては読めないのでそこだけは要注意。

・タイガーマザー、堅物っぽいなーと思って敬遠してたけど「内なる自身を身につけさせる」「うまくやれるから好きになる」という主張には頷けるものがあった。反省。

・体罰はいけないものとされてるけど実験でその長期的影響を調べてる研究見たことがない。ほんとなのかね???交絡要因コントロールしたらあんま影響ないんじゃないかなんて疑問を持っている。

・教育方針を取る要因として子どもの性質もあるんじゃないのーとは思う。迎合型8割指導型2割って家だけど、社会環境を意識してというより人の話を聞かない子に合わせてくれたという点が大きいような。。。まあ歴史的変遷や国際比較やらの本書のロジックには不満はないのだけども。
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2020年09月20日

西洋という奇妙な社会の起源とその帰結

Joseph Henrich, The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous

The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous (English Edition) - Henrich, Joseph
The WEIRDest People in the World: How the West Became Psychologically Peculiar and Particularly Prosperous (English Edition) - Henrich, Joseph

脳科学や心理学の対象となるのはほとんど西洋の学生だ。でもこのサンプルは人類全体からすると非常に偏っている。この特異性がなぜどのように生じたかを分析するのが本書の目的だ。識字率の向上は経済が発展したからでも政治制度が変化したからでも産業が勃興したからでもなかった。神と個人が向き合うべきとしたプロテスタンティズムが聖書を万人向けに配ったからだ。実際、ルターの出生地に近いほどプロテスタンティズムが盛んで識字率も高くなっている。プロテスタンティズムは女子の識字能力を上げた。識字能力が向上した結果脳に変化が起き、記憶や視覚や顔認証や計算能力や問題解決といった領域に影響が起きた。また家族の大きさや子どもの健康や認知能力の発達にも影響しただろう。
何者かを問われた際に個人の性格や業績を社会での役割や関係より優先して答えるのは西洋の心理に特徴的だ。血族社会で暮らしていると団結をはかり老人や賢者など権威に従い近い親族を監視し集団内外を区別し集団としての成功を重視するだろう。逸脱を避けるために新しい知り合いは求めず古い知り合いを重視するだろう。個人主義の社会では良い関係を探して個人の才能を重視するようになりそのような似た者同士で集まるだろう。自尊心を問題にするのが西洋で面子を重視するのがその他の社会だ。行動を個人の特性と考えがちなのも西洋の特徴だ。このため認知的不協和と帰属の誤謬により苦しんでいる。個人主義では罪の意識を抱くがその逆なら恥の意識を抱く。恥は公的なもので社会に課せられた基準を満たせない場合に生じ、他人のことを自分のように感じることからも来ている。恥の文化では人々は集団内で監視されており自分の役割を果たすよう望まれ、自分では何もしていなくても恥を経験することがある。罪は内的な感情で完全に自律的なものだ。これは個人主義的な社会で自分の特性と才能を伸ばすために自分が課す基準として働いている。自制する社会ほど経済成長する。非人格的な向社交性を持つのがWEIRD社会の特徴であり、公平性や誠実性や見知らぬ相手への協調や政府といった抽象的な存在を重視するようになる。悪事が故意に犯された場合重く罰するのが個人主義社会である。血族社会だと個人の責任は分散される。分析的で全体を気にしない、木を見て森を見ずなのが個人主義社会だ。また自分の所有物を重視してしまう。
ヒトは進化して文化を学習できる能力を身につけた。誰から何を学ぶか自分ではなく他人の経験から学んだ方がいいのがいつなのかを決めるのは文化だ。そして文化は脳神経を変化させた。この流れを累積的文化進化と呼ぼう。文化は個人より賢く、例えば伝統的な毒がなぜ強力なのかは誰もわからないだろう。盗みや食物共有など社会規範は共同体を円滑に運営するよう発達しこれを破ると手酷く扱われる。血族社会だと血縁への利他主義が発達した。また婚姻に関する規範も生じた。その多くには父親が誰であるか明確にする効果がある。また誰と子をもうけるかのタブーも近親相姦への嫌悪感として心理に埋め込んだ。他人と調和し同じ目標に向かい音楽を聴くという部族の儀式は相互の関係を強めるために働いている。規範を逸脱する者を強く罰するような心理が発達し規範は人の相互の関係を強めた。集団間競争は文化の進化を生み心理的な制度を作り出したのだ。
集団が巨大化するときはそれまでの慣習を受け継ぎさらに強化するものだ。ニューギニアの多くの部族は300人程度だが例外的に2500人以上いるイラヒタという共同体がある。2分割が5回なされる儀式集団に分かれており、子どもたちは違う儀式集団に認められることで大人になる。5つの通過儀礼では友とともに恐怖を体験するものなど絆を強化する役割を果たしている。宗教のタンバランには村レベルの神がおり儀式に従うよう促している。これは意図的に作られたものではなく、かつて存在したアベラムという部族のシステムを真似てできたものだ。兄弟を同じ集団に入れないことや祖先の神の名をつけないなど誤差が生じそれが偶々共同体を巨大化する方向に導いたのだ。絶え間ない戦争や略奪は協調を促す制度を作り、より繁栄した共同体に移住が起き、より反映した共同体の制度は真似され、上手く協調するところだけが生き残り、子孫が増えていく。ペルーのマチゲンガ族は非常に個人主義的な集団で核家族で暮らしており心理もそうなっている。これはインカやスペインの奴隷として襲撃されてきた歴史のためだ。離れて少人数で暮らすことで襲撃の利益を少なくとどめてきた。どのような制度が成り立つかは環境と歴史によるのだ。気候変動でより植物が生産的になると農業が可能となった。農地と家畜を守るには大きな社会が必要でありそれを形成できる制度がある場合は狩猟社会との競争に打ち勝ち発展することができた。父系社会か母系社会の単系の血縁関係を形成する集団を氏族と呼ぼう。これは父系と母系の両方で集団を形成する場合より利益の相反を減らせる。規範は多くの場合、結婚後にどう住むか、相続と所有はどうなるか、誰が誰を守るか、近親婚の禁止、政略結婚、命令系統、宗教儀式について明確化している。家族が集団を形成し、さらにそのいとこ同士で集団を形成し、さらにその…といった具合で形成される社会が分節血統社会(segmentary lineage)でこれは儀式や社会規範を共有している。家族がいとこに殺られたらその兄弟が報復し、いとこがはとこに殺られたらいとこ同士で連帯して報復しというのがこの社会の特徴だ。報復は個人の名誉と評判となりこれを失うと結婚できなくなる。これはアフリカ中に広まっており暴力が蔓延している。スコットランド系住民の多い米国南部も同じように名誉殺人が多い。イスラム系テロリズムと呼ばれているのはこの報復システムではないかという話もある。また、同年代を集める制度も多くの人を集めることができる。これは通過儀礼により同年代のまとまりを作り、上の年代からの指令のもと防衛や略奪に参加し、次第に村の指導者となるというものだ。これらは部族や氏族を超えて人の集団を作れるが、中央集権で安定して上下関係の明確な制度を欠くためそこまで大きくはなれない。儀式上の力を盗んで巨大化する例もある。ある氏族がどの氏族よりも強くなる首長制は戦争において氏族間の協調を促し公共財を提供することができさらなる拡大が可能となる。そして社会に階層が生まれエリートが大衆と婚姻しなくなると王国となる。近代以前にはこれはまだ血縁関係による繋がりの側面が強かった。
独裁者ゲームの前に宗教的な単語を連想させると他人への分け前が増す。この効果は信者にだけあり無神論者にはない。警察や法廷などを連想させるとどちらにも効果がある。他人と協調したり公共財を供給したりといった手間のかかることを個人にさせる力があるのが宗教だ。信仰の本能とでもいうべき心理的状況は文化の学習に必要だ。また学習のために他者の心を想像する能力までできたが、これは現実に存在しないものの心も想像することに繋がった。そして心身二元論に結びついた。初期の神は弱く気まぐれで道徳には立ち入らなかったが、集団間競争の結果戦争での自己犠牲や調和を促し不貞や犯罪を減らすような神が生き残った。唯一神は人を道徳的に振る舞わせるけど地元神はそうではない。メソポタミアの神々は人のようであった。ギリシャやローマの神々は道徳を司っていた。そして、人生で善行を積むと死後の世界で救済されること、信者の自由意志、誰にでも適応されることを特徴とする普遍宗教が生まれた。教義に重きが置かれ、殉教や身体改造や食のタブーや家畜の生贄など信仰を試すようなものが発展した。
WEIRD社会の特徴は父母両方の家系を辿れること、いとこ婚がないこと、単婚、核家族、子が親と離れ新しく住居を構えることだ。世界の多くの地域ではいとこ婚があることなどかなり特殊な形態である。しかしキリスト教布教までは西洋は血族社会で父系相続で政略結婚で複婚の社会だった。夫や妻の死亡時に義理の兄弟姉妹と婚姻する習慣は血族の繋がりを強めていた。しかしキリスト教はいとこ婚と複婚と兄弟嫁との婚姻を禁じ相続の非正統性という概念を普及させた。これは長い時間がかかった。近親婚を犯したものは破門され村八分にされた。キリスト教は近親婚が神の怒りに触れると信じていた。養子も複婚も再婚も禁じられると家系は絶える。血族社会では土地相続は個人の自由には委ねられていなかった。しかしキリスト教は富者が貧者のために教会を通じて寄付をすると天国に行けると説き、信仰の厚さを示そうという人が続いた。個人の所有と意思が強まり血族の繋がりは弱まり教会は多くの土地を蓄えた。そしてカロリング朝とイングランドでは荘園制が発達した。これは多くの小作農が領主と契約しその土地で働き、その子の世代は親を継ぐか他の領主と契約し新しく世帯を構えるというものだ。世界的にはある氏族が特定の土地を所有するという形が一般的でありこれは特殊。中世から近世初期になると、単婚核家族かつ子世代で新居を構え、晩婚で、生涯独身の女性もおり、少人数家族で出生率が低く結婚前にも労働しているという社会が生まれた。
この社会が与えたヒトの心理への影響を見るため、いとこ婚の有無や核家族かどうかや相続の系統や新居や単婚かどうかで構成する血族社会の度合いKIIをまず作る。遺伝的相関が高いほどこの度合いは実際に高い。KIIが高いほど調和を重視する。またKIIが高いかいとこ婚の度合いが高いほど伝統と従順さを重視する。KIIが高いほど恥の意識を形成する。血族社会であるほど罪より恥についてググる。KIIが高いと個人主義の度合いは低い。KIIが低いほど見知らぬ人に優しい。KIIが高いほど普遍主義ではなく身内贔屓になる。見知らぬ人との公共財ゲームは西洋の大学でやるとヒトが協調することを示すが、KIIが低い国でやるとそうはならない。また献血もKIIが高い国では少ない。KIIが高いと不正直に振る舞う。罰には2つの仕組みがあり、1つは集団の評判を保つため身内を裁いたり復讐したりするもの、もう1つは第三者による規範の執行だ。KIIが高いと前者になる。KIIが低いと道徳の判断に行動の意図を重視し分析的な思考になる。ある国が教会からの影響に晒されているほど血族社会ではなくなる。自己責任や自由意志を重視する心理状態に変化した起源は教会にあるのだ。
ヨーロッパ内部で比較しても教会の影響下にあるほどWEIRDな心理になりいとこ婚は減る。いとこ婚が多いほど組織犯罪は多い。KIIの高い国からの移民の子はあまり個人主義的ではなくもとの国の文化を受け継いでいる。中国でコメを栽培する地域では氏族の強力な繋がりにより農業を行なっていた。このためそのような地域では内輪贔屓が強く個人主義的ではなく分析思考ではなく全体思考となっている。インドでも同様。氏族の繋がりを強める制度は様々である。
狩猟民族でも農耕民族でも多くは複婚だ。男は嫁が多いほど子が増える。中央集権になるほど有力な男が女を独り占めするというのがよくみられる。しかし複婚の社会では多くの男は嫁がおらず失うものがないため暴力的になる。また既婚男も嫁に投資するより新しく嫁を見つけた方が良い。単婚の鳥は配偶者を見つけた後はテストステロンが下がり育児に参加するが複婚の鳥はテストステロンは高いままで雌を探し続ける。テストステロンは挑戦や復讐や他人への信頼やチームワークへの能力や金銭的リスク管理に影響する。これが高いと凶暴になる。男は男が多いと我慢強さがなくなる。独身者は凶暴だが結婚すると犯罪に走らなくなる。一人っ子政策の影響で男子過多な中国は犯罪率が上がっている。成長期に平等な家庭で育ったら平等な制度で働きたくなるだろう。
最後通牒ゲームをWEIRD社会でやると半々に分ける結果になるが、市場に統合されていない社会でやるとずっと他人への分け前は減る。これは独裁者ゲームでも第三者による処罰ゲームでも同様。人を信頼し公平に扱い見知らぬ人とも協調するべしという規範が市場にはある。この規範を守るほど評判が高まり客や仕事仲間や労働者が集まるものだ。この規範があることでお互いに得となる取引に応じられる。競争はあるが公平で正直に振る舞うものが称えられる。これは縁故主義の反対である。市場に統合されていると向社会的になるのだ。そして自発的な組織を作り文書にした規則による制度をなすようになる。売り手と買い手の属人的な関係による取引は歴史的に多い。沈黙交易は内容が制限されているが世界中で観察される。教会により血縁による仲買が妨害されたため市場規範が発達した。西洋の都市は個人主義的な人が集まる場所だった。血族社会を弱めるような決まりごとが多く作成され住民間の秩序が保たれ繁栄し、自治がなされた。競争があり、繁栄する都市の規範や法や制度はその他の都市でも真似された。教会の影響下にあった都市ほど早く成長しより市民参加型の統治となった。市場統合が進み、公平と正直さを旨とする商法が次第に発達した。市場規範の拡散には自発的な組織間の競争の影響があった。学者や法律家を養成する大学はそのような組織の一つであり地元の経済成長を促していた。
戦争が与える心理的影響は大きい。シエラレオネで共有ゲームを実験すると戦争の影響が大きかった人ほど身内に対してのみ平等な分け前を与えるようになる。また独裁者ゲームでも同様の身内のチームメイト贔屓の傾向がある。またより積極的に政治や市民活動に参加する。これは戦争が人々の繋がりの重要性を想起しまた規範意識を強めるからだ。そして人は互助網を作り共通の決まりをもち不安を和らげる宗教へと向かう。災害や戦争を経験するとこれが起きる。欧州は戦乱の歴史だ。軍事的政治的に有効な国家でなくては滅亡していただろう。戦争は新しい自発的な社会集団の形成を促し、非属人的な規範を発達させ、宗教性を強めた。一方血族社会では、例えば中国では戦争は血縁関係を強めるだけで参加型の議会は発展せず関係を重視する規範が発達した。欧州で戦争が起きた地域はその後より成長する傾向にある。これは絆を強め市場規範や法を遵守し信仰を強めたからだろう。また同様に十字軍を送り出した街はより発展した。規制改革により競争が激化すると企業はより内部の結束を強め有効な組織になろうとする。雇用市場は流動的だから非属人的な向社会性を強めるだろう。実際規制改革が起きると人を信頼できると答えるようになる。これは米だけでなく独でも同様で、またPGGの実験でも確かめられる。集団間の競争は宗教性を強めることなく戦争と同じような心理状態の変化をもたらすのだ。街や修道会やギルドや大学などの自然発生的組織が競争してその数を黒死病が流行っている最中に拡大していったのが欧州の近世だった。血族社会では競争激化は中国のようにただ信頼が減るだけとなりうる。
時間に正確で時は金と認識しているWEIRDの特徴だ。市場は時間を効率的に使うよう促す。中世を経て西洋人はより勤労に励むようになった。これは顕示的消費の影響もあろう。それとともに勤労を美徳と捉えるようにもなった。シトー会の活動拠点に近い人ほどそう考えている。そしてより忍耐強くなった。個人主義の都市では忍耐強い方が得なのだ。利子率は下がっていき殺人率も下がった。農業社会では人の生業の選択肢は少なく、縁故によりさらに減ってしまう。一方都市では様々な職があり気質に応じてやりたいことを選べる。ヒトの人格に5大特性があるというのがWEIRD社会の特徴であり、どんな性格でもなんでもやらなくてはならないような狩猟社会ではこの特性は2や3に減ってしまう。一貫性を持って物事に取り組む、自己を発見するというのは西洋の心理なのだ。
分析的な思考、人に資質があるという考え、独立していて調和しないこと、そして見知らぬ人にも社交的であることという心理状態は人の関係を構築し物理世界を考察する上で役立ち法や科学が発展した。またこの心理は民主主義の発展にも繋がり、その逆の因果も起きた。プロテスタンティズムは人々の心理が変化した原因でもあり結果でもあった。その信仰はWEIRDな思考法として都市で文化的に進化したもののそれであり、忍耐強さや欲を自罰するための勤労は経済成長に結びつき、自治を重視し教育で中産階級を強め自立させて民主主義的な制度の基盤になり、そして孤独なことから高い自殺率をもたらした。啓蒙思想もこの土壌から生まれた。
革新は多くの発明からなる。既存のアイデアや技術の再構成であり、集合的な脳を必要とする。これが西洋で産業革命を促進した。その背景には非属人的な信頼や独立心など心理的な発展があったのだ。また都市化で多様な技術を持った人がいた。血族社会では教師は見つけやすいが、WEIRD社会ではより多くの人からなるネットワークの一部となり最良のものから学べた。新居を構える新世代は周りから学び実験を繰り返した。修道会は技術を伝えた。職人の徒弟制が発達し、職人は都市とギルドの競争的な環境の中で働く先を変えることがよくあった。都市は人を引き付け革新をもたらす。大学の人たちは文通で繋がり、情報を共有して秘密や証拠捏造や盗用を罰するような規範が生まれた。ユニタリアンは知識社会の形成を促進した。圧政に対し退出で対抗できた。人と関わるのは何かを生み出すと考えるようになった。栄養を十分に摂るようになり認知能力が高まった。救貧法など政府の介入もそれを後押しした。教会の規則は確かに出生率を下げるような圧力があったが革新によりマルサスの罠を抜け出たのだ。
ユーラシアはアメリカと違い使いやすい家畜や穀物に恵まれており繁栄したという説は紀元1000年あたりまでは妥当だ。でもその後中東ではなく西洋が勃興したことを考察するには文化的進化による心理的変化の分析が欠かせまい。日中韓が成長できたのは農業と国家の長い歴史があり勤勉さや規範が生まれており、上からの西洋化が可能だったからだ。法典や科学的方針を真似しやすかった。中東が失敗しているのは血縁関係が強すぎるせいだろう。裕福になることはあまり心理的に変化をもたらさない。遺伝的進化はこの文化的進化に逆らうような形で影響していただろう。なぜなら欧州の都市は疫病が蔓延しているような場所でそこを好む個体は死にやすかったからだ。修道会もまた同じように遺伝の墓場だ。西洋の制度を違う土地で当てはめようとしている場合はどのような心理的影響をもたらすかを考察する必要があろう。男女平等やロボットやAIなど社会は変化し続け、心理もまた変化しているのだ。

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・エロサイトでよくstep motherだのsister in lawなどの用語が人気と出てきてるけど別にムラムラくるの当たり前じゃんとか思っていたけどこれ西洋(キリスト教)の特徴なんだな。禁止されてるからだろうね、業が深い。
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2020年09月15日

米国の人種の不平等の議論を整理する古典

Glenn C Loury, "The Anatomy of Racial Inequality"

The Anatomy of Racial Inequality (The W. E. B. Du Bois Lectures Book 4) (English Edition) - LOURY, Glenn C.
The Anatomy of Racial Inequality (The W. E. B. Du Bois Lectures Book 4) (English Edition) - LOURY, Glenn C.

黒人差別はアメリカで長く続いている。以下三つの前提のもとこれを分析するのが本書の狙いとなる。1.人種というのは人工的区分であり生物学的には正当化できないヒトの部分集団である(構成主義)。2.黒人が社会において持続的に不利な立場にあるのはヒトが人種を本能的に不平等に扱うからではなく社会的な理由から(非本質主義)。3.黒人が異質であるという認識は奴隷制の歴史によりアメリカ人の心に埋め込まれている(染み込んだ人種的烙印)。著者は政治的歴史的社会的にアメリカで独特の地位を占め、アメリカ社会固有の経済的政治的制度において過酷な取り扱いの影響に置かれそしてそれに反応してきた集団として黒人に焦点を当てている。
社会環境を理解するために情報を得て分類するのが人というものなので、出会う相手を分類すること自体は認知的な活動に過ぎず規範的な活動ではない。人種を以下のように定義する。世代をこえ受け継がれる身体的特徴を持つ集団であり、その特徴は他者から見つかりやすく変化させるのは困難であり、社会において意味を持つもの。この身体的特徴は歴史的な文脈で意味を生じてきたものだ。科学的には人種という裏付けがなくともこの分類に沿って違う行動を取っているならその主観的な認識自体が重要となる。迷信でもないし道徳的に間違っているわけでもない。自己実現的ステレオタイプというものがある。これは統計的な一般化であり、ある集団に関して正であるという理由はあるものの、集団の一員については真偽の定まらない命題のことだ。観察者はこの一般化に従って行動する結果さらに最初の偏見を強化するということになり自己実現的となる。例えば黒人が金を返済しないと統計的に正しい偏見を持っているとしよう。でも危機になっても黒人が猶予をもらえないのかもしれない。責任感がないわけではないのに証拠はそう示すことになり誤解したままとなろう。限られた情報の中で推測を行い、個人の行動にフィードバック効果があり、そして均衡では信念と行動が合致してしまっている。例えば黒人は努力をしないと雇用者が考えており、研修期間後に使い続けるか決めるとしよう。このとき研修期間に黒人がミスをすると偏見どおり怠惰だと判断されて解雇されやすくなろう。ミスを少しでもするとクビになるので黒人の方でも努力をする気が無くなるだろう。そしてこれは最初の偏見を強化することになる。違う例として、タクシードライバーは強盗を恐れ若い黒人を載せないとしよう。他の交通機関を使うので長い時間待つ黒人は強盗をしたい人だけとなろう。逆選択が生じてしまうのだ。悲観的な期待に沿った運転手の行動がこの結果を生んでいる。また、営業が黒人は自動車に対し高い留保価格(それ以上だと取引しないことになる価格)を持っていると考えているとしよう。このとき他の店に行っても同じように高い値段がつくと黒人は予想し高い価格を受け入れるだろう。そして実際に留保価格が高くなる。黒人と白人に同じような入学基準を課すと十分に黒人が入学できないと考えているとしよう。すると黒人学生は努力しなくても大学に入れるようになると考えるだろう。仮に同じような成績を挙げられるとしても自己実現的な予想となってしまう。もちろんこれだけではない。また行動主体について道徳的な判断を下してはならない。なぜ黒人ばかり損をしているのかというと歴史的経緯のせいだ。誰かが何かすべきとも思うかもしれない。多くの相手がいて各個人は何をやっても人口上の特徴を変えられない競争的環境と変えられる独占的環境があろう。後者なら自分の行為を変えれば確かに変化は起きけど前者だと結果に変化は起きない。たとえあるタクシードライバーが止まっても強盗されるだけだ。後者なら自分の予想が正しいのか実験して確かめるのは自分の利益とすらなるかもしれない。でももし本質論に囚われていたら実験しないかもしれない。学習は困難なのだ。分類と推測とは分けて考えるべき。分類は質的な枠組みでありこれに沿ってデータが集まる。推測はデータに基づく量的な計算だ。ステレオタイプは推測に基づくもの。そして実験による学習は分類に属するものだ。認知的な囚人となってしまっていている。気取った話し方やおめかしなどその他の多くの指標を使うということはあり得よう。俺は奴らとは違うという具合に分断と離脱が生まれるだろう。もちろん社会構造のせいでありこの離脱者を叩くのは不適切だ。自業自得だということになり平等化に向けての政治的な熱意は薄れることになる。規範的な側面より認知的な側面に焦点を当て、人が社会的情報をどう考えているかにつき考察するのがいい。
他者から悪く判断される身体的な特徴を持った人たちについて分析したゴッフマンは二つのアイデンティティを区別した。一つは外から与えられるもので、これは社会的に構築され社会的な意味がその見た目に加えられる。もう一つは内から形成されるもので、これは実際のもので客観的に生きた歴史として出来上がる。2つの場合を考えよう。まずある人種集団が均一的で誰もが1割の確率で犯罪する場合。次にある集団が不均一的で9割の人は犯罪をしない善人で1割はいつも犯罪をする悪人の場合。事実が後者でも前者を信じている法執行官は、外から与えられた人種という枠組み以外で分類する方法を見つけて頻度を確かめないと自分の間違いに気づけない。でも学習に価値がないと考えてしまってそのままになるだろう。実験しない限り間違った信念はそのままだ。黒人は劣ったものであるという意味づけの歴史的源泉はアメリカの奴隷制にある。この社会的認識は現在まで続いており、囚人が黒人だらけになっていても貧困層が黒人だらけでも黒人がゲットー化していても人々は気にもとめず政治的に変えねばならないという声が起きにくくなっている。男は暴力的だから収監されやすくても当然という暗黙の同意と同じように働いているのだ。このような社会的認識の偏向が人種問題を考察する上での鍵となる。差別には二種類ある。一つは契約上のもので取引や雇用など公的な付き合いにおいて生じるもの。もう一つは人付き合い上のもので私的な関係において生じるもの。公的介入は前者ではできるが後者ではできない。黒人は社会的な認識の偏向により後者で不利益を被っており、連帯するといいかもしれない。人は一人で存在するものではなく付き合いにより育まれるものであり、後者で不平等があると技能の習得においても不利となる。
社会正義について2つの考え方がある。一つは人種を問わないようにしようというもの。これは過程に関するもので人種により扱いを変えないようにするという方針で自律と公平を重視し歴史は考慮しない。もう一つは集団の現状に焦点を当て、過程のみならず結果も考慮しどのように不公平が生まれたかを酌量するという方針だ。リベラリズムは自律的な個人を前提とするが、それは法や社会的な繋がりや経済的な関係の結果として現れるものだ。そして自信がなく異物であり自暴自棄となった個人はまた社会的に生まれるものだ。人種の不平等が起きた歴史の考慮に欠いている。不正義の歴史については補償の問題と解釈の問題がある。人種によらないことと人種に関係ないこととは違いがある。例えば学校上位10%に入学を認めるという基準は明らかに黒人に有利だが人種にはよらない基準である。道徳的に問題となるのは前者ではなく後者なのだ。正当性に配慮する裁判所は黒人を判事に選び、麻薬の売人はどの人種でも捕まるがその結果大量の黒人が投獄されている。人種が本当に道徳的に無関係なのかは学習環境で人種構成がどのようになっているか把握した上で決めることだろう。政策介入、政策評価、市民の構築という領域において社会正義は問題になりうる。人種によらないという視点が有効なのは一つの国を作ろうという最後の領域だけでだろう。
経済取引など公的な場での不当な扱いではなく私的な場での扱いを構造的に是正していくのが今後の課題なのだ。

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・race blindなだけでは不十分というのはまあわかった。でも肌の色だけじゃなくて例えば性差とかその他の社会的認識上の優劣の基準全部にそういう矯正持ち込んだらめちゃくちゃになりそうな気がするんだよね。
posted by Char-Freadman at 13:28| 北京 🌁| Comment(0) | ぶっくれびゅー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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