2019年06月19日

固定観念、犯罪、そして法執行

固定観念が犯罪や法執行にどう影響するか分析した本が出ていた。

Brendan O’Flaherty, Rajiv Sethi, “Shadows of Doubt”

Shadows of Doubt: Stereotypes, Crime, and the Pursuit of Justice
Shadows of Doubt: Stereotypes, Crime, and the Pursuit of Justice

人間は固定観念を持つ傾向があり、しばしばそれは現実とかけ離れたものになる。自己申告の調査では黒人を迷信や怠慢と結びつける人は減っているが、音楽と結びつける人は増えている。既存の偏見に合う証拠は採用され合わない証拠は棄却される傾向にある。でもこの方法だと世間的に受け入れられる返答をしがちだ。そこで新たな方法として反応時間の変化を見るというものがある
; 黒人や白人の顔を見せながら単語を好ましいまたは不愉快であると分類させるのだ。実験室だと黒人は武器に結びつけられやすく、白人は無害な物体と結びつけられやすい。しかし実際の警官に同じような作業をこなさせると武装黒人に対してはゆっくり反応し無害な白人に対しては誤射するという結果がある。訓練や公的な圧力は無視できない影響を持っている。異人種間の接触の後には認知能力を要する仕事はしづらくなる。人は既存の偏見に対して行動をとるので偏見は自己実現する; 例えばチップをくれそうにない客には冷淡な対応になるしその結果実際チップが払われないことになる。固定観念がどういう誘因を作るか分析することが必要なのだ。人種について本質主義をとる人は多い。また固定観念は一度に捨てられることはない; どの内容が捨てられるかは階層的なもので、人種については偏見に沿わない証拠はなかなか捨てられない傾向がある。
犯罪は90年代以降減少傾向にある。著者は犯罪を二種類に分ける:盗用と破壊だ。殺人は殺害されないために殺害するという予防的側面を持つ。また強盗は犠牲者に見られるという特徴がある。
犯罪する人にとっては固定観念で暴力と結びつけられていると便利なこともある。強盗するとき恐れられていれば抵抗に遭わないからだ。白人は現金を持たないにもかかわらず強盗犯の目標にされやすいが、それは抵抗しないという固定観念があるから。犯罪率は減っているが強盗に遭った際の被害は大きくなっている。これはより必死な人が犯罪に及んでいるからといえる。
殺されるという恐怖から殺人を犯してしまうことがある。この恐怖は殺人を犯しても捕まらないだろうという状況でより増幅される。警官に対して信頼がない場所では目撃証言を得られず、暴力的な結果になってしまうのだ。酒や薬など禁制品を扱う場合は法に頼れず自力救済するしかなくなる。
著者は差別を二種類に分ける。一つは、異なる取り扱いという差別だ。これは人種や性で取り扱いを変えるという差別であり、動機が問題となる。もう一つは、異なる影響という差別だ。ある組織がある方針をとった際、業務上の必要がないにも関わらず特定の人たちに不利益を与える場合がそれに当たる。
差別をしているかどうか見るにはヒット率を見るという手はある。偏見から黒人を捕まえやすい場合、取り調べを受けた人のうちで実際犯罪をしていた人の率は白人のそれに比べて低くなるはずだ。とはいえこの平均を見るという手法には問題があり、ばらつきの大きい集団と小さい集団を比べると誤って検出したりしなかったりしてしまう。多くの犯罪は特定地域に集中している。警官が存在するだけで犯罪率は減る。わざわざ人種を検挙に利用する利点はない。
黒人は白人に比べて疑いを持たれやすく、逮捕されやすい。
恐れから殺害に及んでしまうのは警官も同じで、暴力と結びつけられている黒人は射殺されやすい。接触の多さが検挙率の差を生んでいるのかもしれない。地域ごとにかなり差がある。異なる取り扱いをしているのかどうか調べるのは難しい。
殺人の目撃証言を得るのは特に危険な地域では難しい。復讐される恐れがあるし警察も信頼されていないのだ。セクハラ被害を名乗り出る人は少ない。周りの沈黙は圧力となって沈黙を強いる結果になっている。記憶は曖昧で人種偏見の影響を受けやすい。
固定観念の虜になるのは判事や陪審団も同様で、黒人は死刑執行を受けやすく保釈されにくい。AIでチェックしてみたところ判事は再犯リスクの高い人を単に選んでいるだけではないようだ。もっと被告に優しい判断を下せそうである。
犯罪率は減っているものの収監率は70年代後半から上がり続けている。これには検事の裁量権の増大やその他の要因が関わっていて決定的な理由は不明だ。
検挙率を公開し、警官を増やし、経験を積んだ警官は職歴を伸ばしたくなるようにし、人種の融合した地域を増やし、正しい動機付けを行うなどの改革が必要だろう。薬物を合法化したり銃免許を厳しくしたりして犯罪を減らし、カメラを設置して警察の手続きを透明化したり、テーザーやドローンを増やすなどすることも良さそうだ。法執行機関から独立した第三者機関を作って目撃証言を集めるのも良いだろう。

なかなか人種問題から抜け出せないアメリカを見ることができて面白い。おすすめ。
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2019年06月14日

キブツの興亡史

Ran Abramitzky, The Mystery of the Kibbutz: Egalitarian Principles in a Capitalist World

The Mystery of the Kibbutz: Egalitarian Principles in a Capitalist World (The Princeton Economic History of the Western World Book 73) (English Edition)
The Mystery of the Kibbutz: Egalitarian Principles in a Capitalist World (The Princeton Economic History of the Western World Book 73) (English Edition)

ユダヤ人経済学者の著者は、自分のルーツであるキブツを分析している。

キブツは規模からいうとイスラエルの人口の2%を占めるにすぎない。でも農業でも工業でも生産シェアのかなりを占めているし影響力は大きい。なぜ成功していたのかを探っていく。
シオニストは20世紀初頭からイスラエルの地に完全な所得の平等を目指してキブツを建設していった。標準的な経済学が指摘するように、低い生産性の人物が集まってしまうし(逆選択)、勤勉に働かずただ乗りが起きるし、能力の高い人は他の社会に移ってしまうし、人的資本への投資を怠るという欠点を抱えている。しかし彼らはこれらの点を知ってか知らずか概ね解決していた。新境地を開拓するという人は多かれ少なかれ似たような境遇だったから逆選択はあまり生じなかったし、頭脳流出は固い絆を構築ーー所有権は放棄され貯蓄もなくまたプールやテニスコートなど公共財は豊富だったーーし離脱の費用を上げることで妨害し、プライバシーを認めず相互に助け合いかつ監視することでただのりを防止したのだ。家族のように助け合い規模の経済を達成したと見ることもできる。
労働参加率や労働時間を見るとしっかり働いているし、また文化もしっかり働くことを奨励している。狭い社会で監視されるのは有効だった。
低い生産性の人が入ってこないよう厳しく選別がなされたものの、やはり低賃金な人ほどキブツに入るという傾向は見られる。また非常に有能な人は離脱する傾向があるものの、その率は概ね低い。
教育には正の外部性があるため共同体としてはある程度までは教育を積んで欲しいものの、あまり教育がありすぎると外部の働き口に向かってしまうため望ましく無い。個人としては教育を受けようが受けまいがどうせ所得は平等になるのでしっかり学ぶ誘引は薄い。しかし試験結果などを見るとしっかり学んでいるようだ。
時が経つにつれてイデオロギーは薄まり、政権の態度は冷たくなり、外部の市場はより育った。困難を抱えたキブツにとどめを刺したのは80年代の金融危機だった。多くは負債を抱え公共財の提供ができなくなり、セーフティネットとして機能できなくなってしまった。90年代は改革が続き多くのキブツ内事業が民営化され賃金も差別化されるようになった。キブツの信頼は失われたのだ。
金融危機は自然実験として多くのことを教えてくれる。資産の豊富なキブツから離脱した人は少なく、平等な分配は保たれた。またイデオロギーに忠実なキブツも平等度は高かった。年寄りはあまり働かずまたイデオロギーにも忠実だが若い人の離脱を抑える必要があり、実際年寄りが多いキブツだと平等度が低いという傾向が見られる。
改革の早期と後期で比べると、より多くの高校生が高卒認定試験に受かっていて成績も上がっている。この効果は親の教育が低い子どもにより顕著に見られる。学生もまた環境の変化に反応するのだ。
北米には色々な共同体が平等を目指して入植した。長く続くにはキブツと同じように問題を解決する必要があった。外の世界から孤立するか同化するか、解決策は様々。誘引を軽視することはできないのだ。

繰り返しが多くて辟易するものの後半は面白い。おすすめ。

・著者は懐かしさを感じてるけど俺は不気味さを感じてどうも好きになれない。大学教育以上を望むと村八分なんて真っ平御免な社会だぜ。
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2019年06月11日

告発の構造

Patrick Bergemann, Judge Thy Neighbor

Judge Thy Neighbor: Denunciations in the Spanish Inquisition, Romanov Russia, and Nazi Germany (The Middle Range Series) (English Edition)
Judge Thy Neighbor: Denunciations in the Spanish Inquisition, Romanov Russia, and Nazi Germany (The Middle Range Series) (English Edition)

人はなぜ告発するのだろうか?お上に情報も力も与えてしまって自分の首を絞めることになっていってしまう。環境によりどう告発行動は変わるか?著者はこれらの疑問を解くためにスペイン異端審判・ロマノフ王朝・ナチスのゲシュタポの3つの事例を説明していく。
まず、抑圧は以下のように定義される。他人の逸脱行為を権威者に通知することだ。ここで、行為は必ずしも違法ではないし、しばしば政治的なものである。この後著者は二つのモデルを提唱する。
一つ目は弾圧モデルだ。権威者が民衆に告発するよう動機づけるーー告発すると賞賛ししないと罰するーー場合がこれにあたる。ここでは民衆はお上の保護や何らかの利益を求めている。二つ目は自発モデルだ。特に強制しないものの告発を奨励する場合がこれ。ここでは民衆はチクることで知り合いを陥れて得をしようと動く。告発の他の説明要因としてイデオロギーや安全保障や集団間摩擦は排除していく、というのもそれらは3つの事例において当てはまらないからだ。この二つのモデルは告発数が大きくなるという予想を生むがこれはまさにそのとおり。しかし、お上が念頭に置いている容疑者が告発されるかどうか、地理的に近いかどうか、関係が近密かどうか、社会的属性が近いかどうか、誤った告発がされるかどうかという点において違いが出てくる。弾圧モデルだと権威者に敵意が向かい、自発モデルだと民衆に敵意が向かうだろう。
さて、スペイン異端審判を見てみよう。イザベラ女王は統治の初期において決して盤石な基盤があったわけではなかった。彼女は権力を安定させるために様々なことをした。異端審問はその一つだ。最初の布告は弾圧モデルだったが、次の布告は自発モデルだった。前者ではお上が念頭に置いていたであろうユダヤ教徒が告発されやすく、後者では地理的にも関係的にも属性的にも近い相手が告発されやすかった。
ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが王権を手にした際、権力構造は不安定だった。彼の王朝は権力を安定させるために告発を利用した。告発する人も牢屋に入れられてしまうリスクがあったり情報源としての秘密が守られない傾向にもあったがそれでも告発は絶えなかった。これは自発モデルの予想する傾向に沿っている。彼らはリスクにもかかわらず告発したがそれは衝動的・感情的な理由からだった。一方すでに投獄された人々は悲惨な牢屋から逃れようと告発した。これは弾圧モデルに沿っているが、取調べで一時的にマシな扱いは受けるものの望んだように罰を逃れることはできなかった。
ナチスもまた政権を握った後その基盤を固めるために告発を利用した。誰でも告発することができ、痴情のもつれでさえゲシュタポに通報されることもあった。これは自発モデルに該当する。過去の行いを罰するという特徴があり戦後もその影響は大きかったようで、ナチに協力したという告発がなされた。
告発でどのモデルを採用するかに関わる点は二つある。一つは正統性だ。権威者が民衆の服従を期待できるなら自発モデルで十分だけど、そうでないなら弾圧モデルが必要となる。もう一つは緊急性だ。のんびり構えていればいいなら告発者が現れるのを待てばいいけど、急いでいるなら密告者を採用して積極的に取り締まる必要がある。現代でも、司法取引や内部告発や犯罪通報や反テロといった場合には告発が利用されている。技術は進歩しているけど告発がなくなるとはまだまだ考えにくいようだ。

簡潔でデータも面白い。おすすめ。

・ロマノフ王朝の頃から密告だらけだったとかおそロシア。ソビエトでもそうだし歴史は繰り返すのだな。
・民主主義の醸成には信頼を要するという議論がよくあるし自分も納得しているけどドイツのゲシュタポの例はどうとらえたらいいだろう?告発して足を引っ張り合うような相手に信頼なんて生まれないわけで、でも今のドイツは押しも押されもせぬ民主主義国家なわけで・・・。ナチが悪いという神話が効果的なのか、それともドイツの民主主義は実は薄っぺらなものなのか。
posted by Char-Freadman at 21:08| 北京 | Comment(0) | ぶっくれびゅー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月08日

ロックの経済学

Alan Krueger, Rockonomics

Rockonomics: What the Music Industry Can Teach Us About Economics (and Our Future) (English Edition)
Rockonomics: What the Music Industry Can Teach Us About Economics (and Our Future) (English Edition)

著者は音楽業界を俯瞰し、現実の経済の分析に繋げていく。

音楽業界は変化し続けている。2000年代にデジタル化が始まり海賊版の横行でCD売り上げは激減したが、代わりに配信サービスが伸びてきて総売上は安定してきた。アーティストに直接お金が入る仕組みも発達してきている。ミュージシャンは収入の多くをライブから得る。慈善活動をすることもあり、知名度を上げるのは利益の向上に繋がることもある。
ミュージシャンは音楽が好きだからこの仕事を選ぶものの、自営業者なので経済的に安心するのは難しい。UBERやAirBnBなどの興りでギグエコノミーと呼ばれる短期雇用の形態が注目されてきているが、彼らはそのはしりだ。未払いに遭うこともある。イメージとは異なり、普通の人より教育を積んでいるがこれは集中して長期間練習することからくるのだろう。のし上がるまではバンドは公平に利益を分けるが、その後は中心の人がより分け前を得るようになる; そうでないと分裂するからだ。作曲が複雑化し宣伝の意味も兼ねてコラボが増えている。クスリや鬱の影響が大きい。貧困家庭からも夢を掴める。男が占める割合が依然として高い。
市場にスーパースターが生まれるには二つの条件が必要; 多くの客を相手にすることができることと、替わりが効かないことだ。音楽はこの条件を満たし、ミュージシャンの人気は冪乗則に従う。米英の経済は音楽業界と同じように不平等化が進み一部のスター企業は不当に賃金を低く抑えることができるほど成長してしまった。
ちょっとでも人気のものはより人気が出てくるのが音楽の特徴だ。幸運が重要なため、他の業界に比べて才能ある2世の活躍は少ない。多くは一発屋で終わる。しかしリスクを抑えるよう多くのジャンルのアーティストを抱えるレーベルはほとんどない。
ファンを搾取してはならないとの規範から長いことチケットの価格は低く抑えられてきた。そしてファンは日程調整が不透明だったり発売日を知らなかったりするため、ダフ屋が出現することになる。ダフ屋は一番高値を付ける人にチケットを配るという配分の効率性を高めるものの、一般購入者と競争するし中古市場での取引にはコストがかかるしという欠点もあるため、規制しても良さそうだ。実際Verified Fanというシステムはボットもダフ屋も弾いてちゃんとファンがチケットを買うようにできているため、広がるだろう。ボーモルのコスト病は技術の発展が著しい音楽業界には当てはまらない。とはいえチケットの価格は高騰し続けている。
ミュージシャンにとって契約は難しい。スターは高い前金やロイヤルティを得られるものの、新参者はそうはいかない。人気が出た後には再交渉の余地はある。多くのバンドは仕事仲間として10代の頃からの付き合いのある人物と接するため、どう分配するかの契約はやはり難航する。彼らの収入は予測しづらく、使いすぎてしまうこともある。
海賊版の横行で苦しむ音楽業界を救ったのは配信サービスだった。色々なアーティストの曲を色々なプレイリストで提供してくれる。宣伝にも使われているし個人の好みを情報として蓄えその人に合った曲を教えてくれる。著者は配信サービスにまつわる3つの誤解をとく。まず、ゼロ和競争ではない; どんどん客は増えるしそもそも一人のミュージシャンが占める割合は非常に低い。次に、配信サービスごとに払われている額はそのサービスの寛大さを示すわけではない; 利用者が多ければ額は上がる。最後に、アルバムの売り上げに配信数を相当させる方法はない。いくつもの配信サービスが客の利便性に関して競争しており、まだまだこれから変化しそうだ。
音楽の著作権を認めるのは難しい。メロディが違っていても構成が同じだと起訴されて負ける可能性がある。知的所有権は利益の一時的な独占を認めることで新しい製品を作ってくれる誘引を引き出そうというシステムだが、歴史的に見ると役に立ってこなかった。ちなみに海賊版の横行をもたらしたナプスターの登場前後で比較すると音楽の質も量も上がっている(が、コスト低下の貢献が大きいからかも)。とはいえミュージシャンを社会的に公平に扱ったり、業績を承認したり、政治利用されないなどのコントロールを与えるという側面があるからやはり保護する利点はある。現状ではラジオやyoutubeは不当に優位な扱いを受けており、色々なサービス業者が中立に扱われる法制度が望まれている。
人は自分の国の音楽を聴きがちだけど2004年以降はその偏りが減ってきている。ミュージシャンは多様化しているのだ。中国の音楽市場の拡大は目を見張るものがある。政府が介入するリスクはあるもののこれからも巨大化するだろう。
音楽を聴くのは楽しい。通勤さえ楽しくなるし楽しい経験はもっと楽しくなる。脳の治療にも良い。余暇をどう使うか頭を悩ませてる人は、音楽を聴くという楽しい経験にお金を使うと良さそうだ。

多くのミュージシャンのインタビューも楽しい。おすすめ。

・楽しくて弾いてるんだから著作権なんて認めなくていいと思うけどなあ。アレンジ上手い人にじゃんじゃん弾いてもらった方がいいしコントロールしないでくれた方がいいわ。
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2019年06月06日

なぜの本ーー観察研究の復権

「なぜ」を説明することに正面から取り組んだ本が出ていた。Judea Pearl, Dana Mackenzie, The Book of Why

The Book of Why: The New Science of Cause and Effect
The Book of Why: The New Science of Cause and Effect

因果関係は3段構造になっている。1段目は連関で、これは観察したものについての予想をする。例えば、「歯磨き粉を買った人はデンタルフロスを買うだろうか?」という疑問はこの段階。機械学習はこの段階にいるに過ぎない。2段目は介入で、これは環境を変化させた場合の予想をする。例えば「歯磨き粉の価格を2倍にしたときのフロスの売れ行きはどうなるか?」という疑問はこの段階。観察するだけでなく実際に世界を変化させないといけないから段階が異なるのだ。他の要素が絡んでいるかもしれないから観察結果だけ(1段目)ではこの疑問には答えられない。実験で答えるような疑問がこれ。3段目は反実仮想で、これは「なぜ」について答える。時を巻き戻してそれが取られなかった場合について考えることになる。例えば「歯磨き粉を買った人は価格を2倍にしたときどれくらい買う確率があるか」を問う。世界が変化した理屈を考えるのは因果関係の仕事であり確率の仕事ではない。
いかに知性や身体の特徴が遺伝するかを探る過程でゴールトンはしくじり、平均への回帰を説明しようとして因果関係を結局は放り出すこととなった。統計から因果を放逐しようという教義はその後根深く残り、ピアソンもフィッシャーも相関にだけ気を配り続けた。しかしシューアル・ライトはパス図を開発した。これはどの要因がどう効くかを係数と矢印でもって示したもので、因果を説明する大きな飛躍となった。問題設定者が仮説を持って書き下さなければならず、データに語らせるということはできないのだ。
「起こりそうにないことが実際に起きたと納得するにはどれくらい証拠が必要だろう?」ベイズ牧師の頭を悩ませていたのはこういう疑問だった。ビリヤード台のある位置までに止まる確率は計算しやすいが、球の止まった位置からビリヤード台の長さを推測するのは非常に難しい。結果から原因を推測するにはかなりの情報が必要となる。AIの発達にあっては世界ではなく専門家の行動をモデル化しがちであり、失敗が続いていた。そこでベイジアンネットワークはいくつかの変数をまとめ、人間の脳が情報を伝達させる方法に似せることにした。階層構造にして信念を伝達させるという方式でベイズの法則に従うというものだ。カバンを見つけたり犠牲者のDNAを調べたり電話に使われたりと広く応用されている。
RCTはしばしば黄金基準と言われるがこれは交絡変数のバイアスを避け研究者の不確実性を量で表せるからだ。そもそも交絡変数というのは統計学の概念ではなく、計りたいもの(因果関係)と統計的方法で測れるものの間に存在する。ここで著者は因果関係ダイアグラムではっきりどの変数がどう影響しているか書くよう提唱する。A→B→Cという繋がりならBをコントロールするとAからCへの情報は遮断され、A←B→Cという繋がりならやはりBをコントロールするとAからCへの情報は遮断され、A→B←Cという繋がりならBをコントロールすると逆にAからCへ情報が流れるようになる。変数から変数へ情報が流れるようにコントロールする変数を選んでいけば良い(裏口基準, back door criteria)のだ。この考え方はシンプルかつ力強い。タバコが肺がんを引き起こすことも、モンティ・ホール問題がなぜ混乱して見えるかも、シンプソンのパラドクスがなぜ混乱して見えるかも解決してくれる。情報がどのようにして得られるかは情報自体と同じく重要なのだ。著者はまた玄関基準(front door criteria)というものも導入し、変数から変数への介入効果を示していく。do作用素を利用することで階層の1段階目のデータ(seeing)を使って2段階目の介入(doing)の影響を測ることができるのだ。観察研究の復権と言える。
シトラスは壊血病を防いだが、酸味が壊血病を防ぐと誤解されたからか次第にビタミンを含まないようなもので防ぐことができると勘違いがなされるようになってしまった。直接どれだけ効いているのか測るのは非常に重要な問題と言え、何人もの統計学者を悩ませてきたこの媒介分析も3段階目の反実仮想を利用し鮮やかに解いていく。大学の入学審査が差別をしているのかも、教育がどれだけ雇用に効くのかも、教育政策がどれくらい成績を伸ばしたかも、同じ枠組みで解ける。反実仮想の素晴らしさは、政策の結果が誤っていたときにどう正せばいいかわかることだ。
ビッグデータの時代にあってデータが全てを語るという安易な立場に著者は懐疑的だ。強いAIは反実仮想を扱って自ら学ばなければいけないだろう。

因果推論について非常にわかりやすく説明されている。挿絵も非常に可愛らしく、おすすめ。
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2019年05月30日

市場を根本的に見直そう

Eric Posner and Glen Weyl, "Radical Markets"

Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for a Just Society
Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for a Just Society

所得の不平等が進んで久しい。これは技能のある人の収入が跳ね上がっているからと見る向きもあるけど、経済に占める労働シェアは落ちているし、資本の利率もまた落ちているのだ。ではどこにその富が行ってしまっているかというと、独占企業だと考えられる。経済の分極化とともに政治の分極化も進み、いまや扇動家が大統領としておさまっている。国内でも国際的にも統治がうまくいっていないのだ。共同体の各員が皆のために善を為すという道徳経済はその適応できる範囲が狭く、といって共産主義は腐敗して人々はやる気を出さなくなる。残るは市場だが、最善の結果を生むには三つの条件が必要だ。まずは、自由;個人はどんな財も十分な価格を払えば手に入れられること。例えば戦時下の統制経済では割り当てがなされたが、物々交換という悲惨な結果になった。そして、競争;各々は自分が支払うまたは受け取る価格を所与のものとして考えること。非競争的状況では取引を妨害したり生産を減らしたりして価格を操作しようという誘引があり、時間の無駄や質の低下も招く。最後に開放性;国籍性別心情人種に関係なく取引を通じて相互に利益を得られること。国際貿易をすればイタリアからパスタを買え、労働市場を解放すれば女性のCEOが誕生する。これらの条件があって平等な結果になるのだ。この前提には財が均一で誰も市場支配力を持たないことが必要となるが、しばしば実際にはそれは満たされない。労働市場にいる人は才能が違うし、家は質や場所が違う。また、市場が欠落していることもある。政治影響力の市場も必要だろう;一人一票の政治制度だと少数派はいかに特定のテーマに情熱を捧げていようと多数派の意見に従うほかなくなってしまうのだ。
19世紀の小作人はどれほど仕事ができても土地を手に入れることは地主の同意抜きにはできず、配分の効率性が損なわれる状況だった。いっぽうで自分の手にあるものはなんとかして改善しようという意欲が湧くもので、これは投資の効率性という特徴と呼べる。著者は均質な財以外だとどんなものでもその所有を認めると分配効率を歪める(一番うまく使える人に行き渡らない)ことを問題と捉えている。取引費用を避けて会社という形態になってもやはり市場支配からの賃金悪化や価格吊り上げという問題が残ってしまう。そこで彼らはヘンリージョージやハーバーガーやとりわけビックリーの提案に倣い、競売の常態化と共有自己申告税(common ownership self-assessed tax, COST)を導入したらいいとしている。これは工場だろうが家だろうが車だろうが競売にかけ、最高の利用料を提示した者が使い、それ以上に提示する者が現れたら譲り渡すという提案だ。利用料として集められた金は公共財の支払いと社会給付に充てるとされている。利用料が高いほど課税される仕組みだ。ここでは真の価格を表明する動機があり(上げたら無駄に税を払うことになるし、下げると他の人に取られる可能性が上がる)、投資効率は確かに抑えられるものの高額の利用料については税率を下げればその悪影響は減る。少しの課税でも正しい自己申告を導き、投資はそこまで歪めないというわけだ。シグナリングや逆選択もまた保有効果も避けることができる。またこの提案のもとでは資産の価値は利用料として低額に抑えられるため、借り入れ制約という問題も生じにくくなる。私的所有のもとでは怠慢になりがちだけどCOSTのもとではそんなことでは競争に負けてしまうから皆勤勉になるのだ。周波数帯オークションは一回しかされなかったからその所有者となった人が額を釣り上げるという結果になったしドメイン名が不適切な人物にわたる可能性があるけどCOSTだと常に競売にかけられているからこのようなことは起こらない。空港や鉄道は地主に妨げられることなく作ることができるようになるし、給付は平等化を促す。
市場ではたくさん支払う意思を見せることである財やサービスをどれくらい好んでいるか示すことができる。それに対し一人一票の民主主義はいくつもの欠点を抱えている。少数派の権利を守ることはできず、身動きが取れなくなったり、戦略的投票により悪い代表を選ぶこともあり、多数決を複数回行うことで独裁が生じることもあり、人々がどれだけ望んでいるかやどれほど詳しく知っているかをまとめ上げることができない。古代アテネやアメリカ建国、ヒトラーなど歴史に例は多い。そこで著者は伝統にならい政治を公共財の提供として捉えていく。適切に供給されるためには各人の声はその公共財を欲していればいるほど聞き入れられなくてはならないが、普通の市場ではこの結果は得られない; 一番気にする人が誰よりも支払う意思を見せてその他の人を追い出すからだ。投票により他人に迷惑をかけたぶんだけ支払うようにしないと最適な結果は得られない。ここで、支払うべき価格はその人がどれくらい結果に影響するかではなく、その「自乗」に比している。たとえば汚染しながら電力を供給するプラントを考えてみよう。誰かが汚染量を減らしてほしいと思ったとき、他の人は電力消費を減らす結果になる。電力消費は減れば減るほど汚染によって得られたはずの便益は大きくなるので、彼の減量要求は1単位ごとに過大な負担を強いていくことになるのだ。ここにきてついに著者は「自乗投票(Quadratic Voting, QV)」を提言する。まずある国が何度も選挙するとして、1回1回各人は票を貯めても良いことにする。そして投票すると決めたときは貯めた票数の平方根のぶんだけ票としてカウントされるようにしようというシステムだ。これは自分が投票して迷惑をかけた人に対して「自乗」ぶんだけ票を支払うことになり、フリーライドの問題は生じず社会的に最適な結果をもたらす。実験するとリッカート尺度よりQVの方が正規分布に近いような形になる。レビューサイト等で応用できるしもちろん政治の場でも利用できる。ある選択肢をどれだけ好んでいるかまで表明できるから、嫌な候補者を罰することができるのだ。平等な社会への第一歩を踏み出せる。
18世紀は皆が貧しく、誰がどこに移住しようと利益はなかった。しかし貿易は富を生むため、貿易論が発達した。世界的には所得の格差が大きい。ここで著者はビザのオークションを提唱する; 一番高く支払う意欲を見せた人に落札させ、そのアガリは公共財や給付に回すというものだ。ベッカーのアイデアにさらに一捻り加わっており、それは政府が主催するのではなく国民一人一人や共同体ごとに主催する(Visas Between Individuals Program, VIP)という点だ。望ましい条件を飲んでくれる人だけが来る結果にできるし、それなら混乱は起きないし次第に理解も進むとのこと。
機関投資家は1980年にはすべての法人のうち4%の株を持っているに過ぎなかったが近年では26%も持っている。同一業界の会社をいくつも抱えているため競争を阻害するような行動に出ることがある。例えば、価格を上げたり投資を控えたりするようCEOに直接指示することもある。労働市場においても同じように談合をして労賃を値切ってしまっている。そこで著者は物言う株主としてはどの法人についても1%のシェアを超えさせないよう規制することを提言する。いくつもの業界を跨いで資産を振り分ければリスクは減るから資産運用はあまりダメージは受けないし、一方企業間の競争は労働者を確保する市場でもまた保たれるのだ。機関投資家同士の競争は、いかにしてしっかり企業を株主のために働かせるかという点で生じるようになる。
計算機能とデータの量の向上はニューラルネットワークなど機械学習の有効性を飛躍的に高めた。これまでの普通の統計に必要だったデータ数はせいぜい数百程度なので末端ユーザが加えるデータはほとんど意味がなかった。しかしこれからは大量のデータが必要となるため各人が持ってくるデータはとても価値があるのだ。ここで著者はデータを労働として捉えるよう提言する。現状ではテクノロジー企業は貴族のように振る舞いデータ市場を買い手独占してろくに支払っていない。これでは質の高いデータをユーザが持ってくる動機はない。そこで労働組合を作るよう全ユーザに呼びかけてデータに対する支払いがなされるようになればもっとサービスの質も向上するし社会貢献しているという実感も生めると見ている。
COSTを人的資本にかければ才能のないものに対しても今よりは不平等が減るかもしれないし、国際社会でQVを導入すれば弱い国が無視されることはなくなる。VIPで来た移民にQVを認めればより良い移民を引きつけることができるかもしれない。計算能力が発達してテクノロジー企業は市場と同じようなサービスを提供しているようになってきているとはいえ、上記の4提言をまとめてより良い社会を作るのが現状では最善ではと見ている。

・特に1章は契約理論のまとめとして出色。市場原理主義は「ヌルい」とバッッッサリ。すごすぎる。。。
・2章も公共経済学のまとめとして素晴らしい。自分は学部のときO先生に習って「ほーんVGCメカニズムだと嘘つく動機あるから結局実行できないんかー」で納得してしまったけどワイル氏はそこで止まらなかったようだ。票を貯められるようにしてオークション形式にすれば自己申告するじゃんという発想の転換があまりにもあまりにも見事。
・ミクロ経済の本としてここ10年で一番刺激的な本。すごくオススメ。
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2019年05月23日

人類と真社交性

E O Wilson, Genesis: The Deep Origin of Societies

Genesis: The Deep Origin of Societies
Genesis: The Deep Origin of Societies

社会生物学で一世を風靡した著者は、本書で真社交性が人間社会の起源ではないかと論じている。
進化の段階は以下のようにみていくことができる。1.生命の誕生2.真核細胞の発生3.性によりDNAが多様になること4.多くの細胞からなる器官が生じる5.社会の発生6.言語の発生
自然淘汰が働く水準は様々だ。動物の細胞をみると死ぬようにプログラムされているものがあり、これがうまくいかないと癌になる。血縁淘汰や群淘汰もまたその例だ。鳥や魚は群れになって行動することがあり、これは捕食者から身を守るのに役立つ。協働は便利なのだ。閉経後の女性は社会に貢献するし人間の同性愛者の率は生殖行動の変異は説明がつかないほど高いが、これは真社会性を人間が持っていることの証拠とも見える。
真社交性を持つ昆虫は繁栄しているが、生物の進化の歴史を考えると比較的最近になってから現れたし、その例は少ない。これは個々の生物に集団のために自己犠牲を強いる行動が備わっていくには時間がかかったからだ。巣の幼生を卵から成体まで敵から守り養うという特徴がある。自分の子ではなく誰の子でも守るように発達してきたのだ。血縁淘汰から群淘汰に繋がったと主張されることはあるがそれは間違いで、その逆。血縁淘汰や包括的適合度は理論の点からも最近の実験からも反論を受けている。
アフリカで発生した人類は真社交性の動物と同じような道を辿ってきた;群淘汰が働くような極めて暴力的な環境だったのだ。脳が巨大になり、火を使い、成員と協働することで今日まで社会を営んできている。

血縁淘汰を叩く段になるまで退屈な話続くけど、後半の特に6章はとても面白い。時間のない人はその章だけでもオススメ。
・同性愛への傾向が真社会性から来てるかもという指摘面白かった。アリに引きずられすぎ感もあるけど・・・
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2019年05月22日

ネットワークの重要性

Matthew O. Jackson, The Human Network

HUMAN NETWORK, THE
HUMAN NETWORK, THE

簡単なグラフ理論を通じ著者は人のネットワークの生まれ方やその効果を分析していく。
人の影響力を測る方法はいくつかある。
・人気:ある人が何人友達を持っているかを見てみよう。これは次数中心性と呼ばれる。友人は平均的に言って典型的な人物より多くの友人を持っている。これは友情のパラドクスと言われる。それは社交的な人は何人もと繋がりがあり何度も友人としてカウントされるからで、その影響力は過大評価されているということになる。数人の悪童を通じてタバコや飲酒の影響が広まるという現象はこうして生じるのだ。
・コネ:他の人とよく繋がっている人と繋がっているかどうかを見る指標。これは固有ベクトル中心性と呼ばれる。グーグルは重要だと他のページから思われているページを拾うことを可能にしたが、それが検索エンジンで覇権を取る理由となった。
・拡散性:限られた繋がり合いの中で情報を撒くのにどれだけ適した地位にいるか。マイクロファイナンスの宣伝では拡散性の高い人物ほど情報を広めるのに貢献した。
・媒介性:人と人とをつなぐ際にどれだけ介在できるか。これは媒介中心性と呼ばれる。メディチ家が力をつけたのは結婚を通して多くの有力な家と関係を作ったからであった。メディチ家以外にはそんな存在はいなかったのだ。
感冒は繋がりの多い人物が広めていると思ってしまうかもしれない。しかしそれは間違いだ。平均的にどれくらいの病人を感染させるかの数値が重要であり、これが1を超えると次第に広まるようになる。人気者を隔離した程度では爆発的な感染を防ぐには不十分である。感冒には外部性がある:ある人が感染すると他の人も感染しやすくなる。ワクチン接種は自分のためだけではなく人のためでもある。
金融危機は感染症と似ているが重要な点で異なる。多くの取引相手がいるとリスクを分散できる一方、倒産した場合は多くの相手を巻き込んでしまう。特定の相手とは密な取引がありその他の相手とは薄い取引があるという状況は危険だ。金融業界はどんどんと集中化が進んでしまい潰すには大きすぎるということになってしまった。また恐れは実際に危機を引き起こす。あの手この手で規制を逃れようとする銀行に対処していかなくてはならない。
類は友を呼ぶ(homophily)。インドではいまだに同じカースト同士で結婚がなされる。似た人が周りにいて住んでいて欲しいなと思っているとしよう。このとき、自分が移動するとその周囲の人にも影響を与えることになり、さらなる移動を引き起こす。そういう連鎖が続くと完全な分離がなされることになる。少しの好みが大きな結果を生むのだ。分離する社会では信頼が生まれず利益集団が政治をかき回してしまい政府が役に立たなくなってしまうと見る研究もある。分離問題を解決するためにはどういう経緯で似た者同士が引き合うようになっているか理解するのが重要。
アメリカでは貧しい人は貧しいままという世代間の所得の不動性が指摘されて久しい。1940年代から80年までは多くの雇用を必要とする産業が伸びたため所得の不平等は伸びなかったが、それ以降は技術に強い人に所得が集中してしまった。教育のもたらす所得格差は非常に大きくなっている。貧困家庭は社会資本に乏しく、教育の重要性を知らない。そういう共同体から抜け出せなくなっているのだ。類は友を呼ぶため、周りがドロップアウトしているなら自分もドロップアウトしてしまおうと判断してしまう。誰かの紹介で職が見つかることはかなり多いがそういう機会も失っている。この状況を変えるにあたりキブツのような集団社会を作るのは現実的ではない。技術が重要という潮流は変わらないのだから、教育が必要であるという情報を拡散し、一人一人救っていかなくてはならない。
知識を得るのは難しい。色々な情報源から偏りなくまとめないといけないからだ。友人に意見を求めるとしても、自分の意見をそのままこだまとして返してきているだけかもしれないし、繋がりの多い人の意見は多重に考慮してしまいがちなのだ。似た者同士がつるむ場合はさらに厄介で、分離が生じてしまいなかなか正しい意見が浸透しなくなってしまう。さらに、ニュース産業は情報を広めることに利益を見出すようになっているため、精確な情報を得ることについては疎かになってしまっている。
誰かがあるレストランに並ぶのを見てそれにならって同じ店にすることもあるだろう。銀行取り付け騒ぎはそれが起きる恐怖があるだけで生じうる。自分の友人同士が友人であるかどうかを見るのがクラスター性だ。共通の知り合いがいると債務の不履行が生じにくくなる。とはいえコネには欠点もあり、いい業績の人がふさわしい職に就けないことにもなる。
技術革新には二つの効果がある。一つは、関係を作ったり維持したりするのが容易になることだ。貿易関係が発達した結果戦争が減ったと見ることも可能だろう。もう一つは、似た者同士で集まりやすくなってしまうこと。政治の分極化はインターネットの普及とともに進んだ。同類と狭い殻に閉じこもることなく、正しい情報を広めていくためには関係性の構造をしっかりと理解するのが重要である。

ネットワークを考える上で重要な点を簡潔に整理してくれている。オススメ。

・貿易関係が戦争減らすかもって言ってるけど逆も可能のような。貿易関係がたくさんあるなら資源枯渇を恐れることなく殴りに行けると思ってもおかしくなくない?うーむ不思議
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2019年05月17日

研究投資でアメリカを豊かにしよう!

Jonathan Gruber and Simon Johnson, Jump starting America

Jump-Starting America: How Breakthrough Science Can Revive Economic Growth and the American Dream
Jump-Starting America: How Breakthrough Science Can Revive Economic Growth and the American Dream

1940年当時、アメリカの軍事技術は貧弱だった。しかしルーズベルトのもと国防研究委員会を立ち上げたヴァネヴァー・ブッシュは産学官の強力な連携を推し進め、二次大戦の勝利に貢献する技術を生み出すこととなった。ところが60年台半ばから研究予算は減り始め、今ではGDP比で0.7%まで落ち込んでいる。そして成長と雇用を生むような革新が起きていない。十分に優れた都市には科学的インフラやベンチャー資本家を確保するようにし、納税者全てに恩恵が行き渡るような革新を生む必要が出てきている。
エジソンの時代までは個人が発明していたがそれ以降は企業が発明するようになった。しかしブッシュはそれでは物足りないと感じ、予算を回すことで科学が発展するように仕向けたのだ。1930年代まではアメリカの大学は研究より教育に軸を置いていた。既存の知識を軍事転用する流れはレーダーとして結実し、その後の多くのノーベル賞を生み大学の雰囲気をも変えた。技能偏向型技術進歩により自動化は進んだものの多くの退役兵は再教育により技能を得て、平均賃金は上昇し続けた;一方で技能のある人とない人の差(技能プレミアム)は戦前の水準にとどまったのだ。自由な輸出により多くの雇用も生まれた。
人工衛星打ち上げでソ連に遅れをとったアメリカは危機感を抱いた。ミサイルギャップ論争も終わり月面探査に向けて本格的に乗り出すことになった。ドイツからはフォンブラウンを含め多くのミサイル技術者が招かれ、巨額の研究予算を組まれたアメリカ航空宇宙局(NASA)は多くの成果を挙げた。IBMを消費者としてまた投資家として育てたのは政府だった。この影響から、今でも軍事に偏っているし、軍事産業では寡占や行政癒着が残り、MITやハーバードなど一部の大学に研究が集中するということになってしまった。
しかし科学者は次第に政府の中で力を失っていった。これは夢のエネルギーと謳われた原子力が放射能という深刻な問題を持っていたりDDTが環境を汚染してしまったりと科学が思わぬ結果をもたらすことが明らかになり、不信を招いたことも原因だ。またベトナム戦争やら核開発やらで科学者は自分の役割に疑問を持った。そして社会保障や医療制度の必要性、レーガン政権での小さな政府の推進、冷戦終結などで次第に科学予算が削られていった。
私企業が機会を見過ごすことはある。RCAは液晶ディスプレイの技術を持っていたにもかかわらずシャープに売り払ってしまい液晶電卓という市場を見逃し、その後もディスプレイ市場でずっと遅れをとった。私企業の研究開発だけでは不十分な理由は三つある。まず、一企業は波及効果までは考えに入れない。ゼロックスのPARCはGUIの技術を持っていたがその真価を見抜けず、ジョブスに横取りされてコンピューターという巨大な市場を獲得できなかった。次に、企業の研究は独占的なのだ。製薬産業ではそれが顕著で、コレステロール値を下げるスタチンの販売は企業の秘密主義のため遅れてしまうこととなった。最後に、市場に出るまで時間がかかりすぎて利益を得られないと判断されてしまうことが挙げられる。アルツハイマーやパーキンソン病の薬は市場に出るまでにはほとんど特許が切れてしまうことから開発が打ち切られた。ベンチャー投資は危険で、商品化できるかは見通せず、起業したばかりの企業に投資する人はほとんどいない。細胞治療も遺伝子治療もその価値が理解されなかった例だ。1987年では企業研究の1/3は基礎研究に向かっていたが、今日のそれは1/5となっている。
そこでやはり政府の出番だ。ヒトゲノム計画は米国エネルギー省と厚生省により立ち上げられ、多くの商業的技術を生んだ。軍事研究もまた成果を生んでいて、例えばルンバはその申し子だ。公的投資は私的な投資を減らすのではなく呼び込むのだ。とはいえその直接の影響は局所的で、どこにファンドが立地するかは重要。投資は失敗がつきものなので失敗を叩きすぎることなく気長に成果を待とう。
知識産業は特定地域に集積しがちだ。ケンダルスクエアは寂れていたが1960年代以降のMITのテコ入れにより宇宙産業やバイオ産業の中心地として復活を遂げた。アルブケルケとシアトルとの間で立地に悩んだマイクロソフトはただ創業者の故郷という理由で後者を選んだが、その歴史の差は歴然としている;シアトルは平均賃金が37%も伸びたがアルブケルケのそれはたったの7%だ。アマゾンが本社の所在を決める際は多くの地域が立候補したが、それは巨額の税控除による誘致を招くこととなった。課税ベースは増えるが課税額は減ってしまうため税収が増加するかはわからない。税額低下競争ではなくもっと生産的な競争をさせる必要がある。ランドグラント法やTVA、軍事基地等で特定地域にテコ入れをするという政策に倣えばいい。
オーランドはディズニーランドだけの都市ではない;海軍基地はシミュレーションを専攻する大学と産業をその遺産として残した。多くの雇用を生んでいるもののベンチャー資本が足りているとは言いにくい。そこでやはり公共投資の出番で、死の谷を超えるまで見守ってやるといい。もちろんそこでは官民癒着を防ぐ必要があり、それには軍事基地再編の際のやり方が参考になるだろう。ハブ候補の土地利用は公的に行い、納税者全てのためになるよう運用すべき。
さてどの分野に目を向ければいいだろう?研究が活発でかつ投資に意味があり、他の国が注目している分野が良さそうだ。中国の大学は合成生物学での研究を進めている。そして中国は水素社会の実現や原子力の安全利用に向けて進んでいる。深海探査はレアアースのみならず未知の生物資源を利用できる可能性を秘めているが、やはり中国がそれを進めている。台湾・シンガポール・中国は中関村・カナダの研究区画構想から学ぶと良さそうだ。
他の国の研究開発にただ乗りするだけじゃ雇用は生めない。研究開発の予算を増し一歩踏み出す必要があるのだ。

・主張こそ陳腐だけどとりあげられている事例がどれもこれもめちゃくちゃ面白いのでオススメ。
・基礎研究から応用研究にシフトしちゃったって指摘あるけど、それ基礎研究が利益生み出さなくなってるって話ではないのかしら。どうなんだろう。
・シャープが目の付け所を褒め称えられてるけどゾンビ事業になっちゃったのはなんとも皮肉な結末。育つ産業に公的資金投入するのって難しいよね。
・この本の提案するような開発区域作るならやっぱ教育ある人も事業も大学も多い東京になるんだろうけど湾岸地域がいいかなあ。自分なら足立区とか葛飾区推すけど。
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2019年05月13日

国難について

Jared Diamond, Upheaval: Turning Points for Nations in Crisis
Upheaval: Turning Points for Nations in Crisis (English Edition)
Upheaval: Turning Points for Nations in Crisis (English Edition)

大火に遭遇したり、進路に迷ったり、結婚生活に終わりを迎えたりと人生にはいろんな危難がつきものだ。国もまたそうで、植民地をどんどん失ったり、好戦的な共産国を隣に抱えたり、やはりいろんな危機を迎える。個人の危機と国家の危機を比べることでわかりやすい分析をしようというのが本書の取り組みだ。そんなわけで主に7つの国を取り扱ったお話になり、比較分析が主であまり詳細には立ち入らないし、ほとんど統計も出てこない。定量的な話はのちの研究にお任せとのこと。
個人が危機を乗り越えるには以下のステップが必要となる。1.自分が危機に陥っていると認識する2.自分がなんとかせねばならないと理解する3.問題の境界を設定する(=全てがダメなのではないと理解する)4.他人に助けを求める5.他人を参考にする6.自我の強さを認識する7.正直に自己分析をする8.過去の危機を思い出す9.気長に待つ10.譲れるところは譲る11.譲れないことは何かを考える12.責任やら雑務などの制約をなくす
フィンランドではカレワラは皆が知っているし周辺国と違う言語体系のフィンランド語を話す国民がいる独特の国だ。この国は1917年の独立以来ずっとロシアの拡張に悩まされていた。カレリアの国境線変更と軍事基地設置の求めにフィンランドが応じなかったため冬戦争が勃発した。これは譲渡するとソ連がなし崩し的にフィンランドを支配すると恐れたためでもあり、またスターリンがただハッタリをかけていると間違えたためでもあった。その後もずっと近隣諸国のどこもフィンランドに支援を送らなかったため結局ドイツに頼らざるを得なくなり、独ソの戦争に巻き込まれる形で継続戦争が開始した。徹底的な交戦ののちに結ばれた1944年の講和条件は1941年のそれと同様厳しいものであり、ドイツ軍の撤退・カレリアの譲渡・海軍基地の租借・戦争犯罪人の処罰などを認めさせられた。しかし戦後は70年以上平和が保たれている。フィンランドは小さく誰も助けてくれず(#2)ソビエトの防衛意識に従わねばならない(#7)という現実に直視したことがこの結果に結びついたのだ。たとえフィンランド化と揶揄されようがソビエト批判はせずゴミのようなソビエト製品を輸入する(#10)ことを続け(#9)、そしてソ連の信頼を獲得することに成功した。独立は譲らず(#11)彼らは戦い抜いたことを誇り高く思っている(#6)。戦時にはマンネルヘイムという優れた将帥を持ち、戦後は面従腹背の政治家を持っていたことも忘れてはならない特長だ。文化的に統一されていて内戦で国がバラバラにならなかったことも効いている。
幕末の日本は列強の恐怖に晒されていた:阿片戦争でイギリスに負けた清が屈辱的な条件を飲まされていた。幕府はペリー来航を機に様々な不平等条約を列強と結んだものの、西洋の知識に追いつくため時間を稼ぐことに勤めた。攘夷を掲げる志士はテロを起こしたが、薩英戦争で敗北し軍事力をつける必要があると学んだ。これまでの幕府では夷狄を扱うのに十分ではないという認識から倒幕運動が起き、王政復古となった。その後の日本は政治的・社会的な改革を通じて西洋の強さを身につけ、日清戦争と日露戦争に勝利しついには列強へと変貌できた。憲法はドイツ式、海軍はイギリス式、民法の起草はフランス式、教育はアメリカ式と西洋を模倣(#5)したことはこの結果に繋がっている。黒船襲来で危機意識を持ち(#1)、列強の優れた点を認識(#7)することが必要だったのだ。経済・法・軍事・政治・技術面は洋風を取り入れた(#3,#7)が、儒教的な道徳性・天皇崇拝・神道・かな遣い等は保ち続けた。またグラバーやモッセやビッカース社など外国人の助けも得た(#4)。明治時代を通じて日本人は優れていると信じ、その国の価値を疑うことはなかった(#6)。さてその一方で天皇制は譲れないものであり(#11)、その後第二次大戦ではたくさんの自殺特攻という悲劇を生んだ。島国で切り離されていた(#12)ことも有利であったようだ。これは一部を除き西洋の分析に疎かった第二次大戦時の軍事的・政治的状態と対照的である。
チリは砂漠と山脈に囲まれていてほとんど孤立した国であり、ボリビアやペルーと戦った以外は対外的な危険を持たなかった。スペイン系の子孫がほとんどで黒人もインディアンもおらず、ラテンアメリカよりもヨーロッパに親近感を抱いている人が多い国だ。大地主が多かった歴史は近代になっても政治的な困難をもたらした。アジェンデ大統領は1970年の当選後に社会主義化を進め、企業の資産の凍結や鉱山の国営化を行った。この失政はチリ経済に大混乱をもたらし、ピノチェトによる軍事独裁を招くこととなった。ピノチェトは左派の弾圧を繰り返す一方で経済政策では自由化を進め、高度な成長を達成した。しかし軍事政権への反発はあり、1989年の国民投票でついに敗北した。ここにおいて遂に左派の政党は極端な政策をとることを諦め、現在まで民主的な選挙が続いている。民主的な政権になっても自由化政策は進められている(#3,#10)のだ。アメリカの支援を受けてアジェンデを打倒し経済を立ち直らせたこと(#4,#5)も注目に値する。チリはアメリカの顔色を伺いチリ銅山の市況に左右されるという制約を持っていた(#12)。一連の危難は極左と極右の争いがもたらした内乱であり、暴力的な政体は平和的な変化によって崩されなくては安定せず、一人のおかしな政治家により国家全体がおかしくなってしまうことを例示している。さて政治の分極化が進むアメリカはどういう道を辿るだろうか?著者は警鐘を鳴らしている。
インドネシアは東西5100キロにもわたり、人口は世界4位と多く700もの言語を抱える国だ。オランダ統治まではインドネシアという名前すら無かった。1910年代に芽生えた民族意識は宗教的にも地理的にも分断されていた。当該地を占領した日本は将来の独立を約束したが、連合国に降伏してしまったためそれは反故にされそうであった。そこで1945年8月17日に独立が宣言され、1949年まで独立戦争が続いた。スカルノは民族意識の低さを理解していたためパンカシラという原則を強調するようにした;一つの神、統一インドネシア、人道主義、民主主義、社会正義である。インドネシアの貧困を全て帝国主義のせいにしたスカルノは国家中心の経済運用を行い、アメリカのピースコープを追い出し国連も世銀もIMFも脱退した。多様すぎて議会は機能不全を起こしていたため、スカルノは「指導される民主主義」を掲げて独裁することにした。この支配は1965年の9月30日の軍事クーデターで終わり、スハルト時代の幕開けとなった。汚職にまみれているとはいえなんとか経済発展に成功することになった。政体を軍事政権に変え、経済政策を自由化し、第三世界のリーダーになるというスカルノの白昼夢は放棄した(#3)。一方で統一領土・宗教的寛容性・非共産国家は維持した(#11)。この方針はスカルノもスハルトもそれ以降も維持している。低い民族意識(#6)や貧困(#12)に足を引っ張られたが、バークレーで修行した経済学者に頼り(#5)また外交方針を西洋寄りに転換して投資や援助を呼び込むことに成功した(#4)。スハルトの自己分析は現実的であり、マレーシアに対するゲリラ運動や反植民地運動など無理はやめた(#7)。インドネシア語はもともと交易のために利用されていたわかりやすい言語であり内部のどの民族も優勢にならないよう公用語として定められたものだが、今も話され続けている。
戦後のドイツはまず連合国に分割統治され、東西に分かれた。二次大戦の責任はドイツの勃興にあると見られていたため当初は産業の振興は西側の懸念の種であったが、冷戦の進行によりソビエト共産圏からの防波堤として重要な存在と捉えられるようになり、援助を受け取るようになった。戦前への反省が見られ、ほとんどは敗訴したものの木っ端役人に至るまでナチは訴追された。1968年には大学闘争が起き、テロによる資本主義転覆の企ては失敗したものの、権威主義的だったそれまでの政治的環境は変化した。ブラントは外交方針を一変させ、東独と向き合い東欧諸国との関係も改善した。シュミットとコールもこの路線を維持し、東西の交流は活発になりやがて東西ドイツは再統一された。ドイツは非常に多くの国と陸でも海でも接しており(#12)、諸外国の様子を伺う必要があった。第一次大戦後は被害者意識(#2の失敗)から扇動者が生まれたが、第二次大戦後は真摯な反省が見られる。ビスマルクは正しく分析し、ウィルヘルムとヒトラーは誇大妄想に陥り、アデナウアーやブラントはまた現実路線に戻った(#7)。国境変更とナチの過去を乗り越え権威主義的体制を捨て女性の地位は向上したが(#3)、芸術を保護し保険制度を維持し共同体の価値を信じるという文化は維持した(#11)。マーシャルプランを受け(#4)経済的奇跡を達成した。これらの変化は全て緩やかだった(#9)。
オーストラリアへのイギリス植民は1788年に始まった。アボリジニは狩猟採集民のため集住するということはなく土地を持たなかったため、植民にあたり交渉はされなかった。アメリカとは対照的にオーストラリアは平和的な経過で自治が認められた:アメリカの経験を踏まえたことと、あまりにも遠かったことと、統治に軍が必要ないため過酷な税を課す必要もなく反抗が起きなかったためだ。第二次大戦まではイギリスに対する同化意識が高く、例えばガリポリでイギリスのために戦った日が祝祭日になっている。しかし日本の侵略に対しオーストラリアの防衛を誓ったイギリスはシンガポールから撤退した。戦後はさらに英豪の足並みは揃わなくなった;イギリスはEECに参加してオーストラリア製品に対して関税をかける道を選び、オーストラリアの最大の貿易相手国は日本となった。そして白豪主義は時代にそぐわないものとして放棄されることとなった。オーストラリアは常に自分が何者なのかを問い続けている(#6);イギリスでもありアジアでもある。アジアの周縁にあるという自己分析が必要だった(#7)。イギリス従属外交の放棄・多民族国家の形成・政治的かつ経済的なアジア重視などの点では変化したが(#3)、議会制民主主義・象徴としてのイギリス国王・ユニオンジャックを含んだ国旗・スポーツ狂いなどの文化は維持した。海に囲まれているため日本の侵略までは外圧が加わらなかった(#12)。
現在の日本政府は債務超過を抱えており、世代間の負担格差が問題となっている。女性の地位は低く労働市場に参加せず、また移民には非常に消極的で、少子化が進んでいる。戦争への謝罪は不十分で中韓の不信は未だに残っている。資源の輸入に頼りきっている国であるにもかかわらずその計画的な利用には反対している。
現在のアメリカは一人当たりGDPが極めて高く、資源は豊かで農業生産性も高く、地理的にも侵略される恐れはなく、優秀な人材の宝庫となっている。しかしここ15年というもの政治の分極化が進んでしまった;選挙資金を大量に拠出するロビー団体は極端な政治家を支持しがちだし、地元の顔を伺うため頻繁に帰らざるを得なくなり政治家同士での繋がりは薄れ、改変でどちらかの政党に偏った選挙区ではより極端な政策が支持されるのだ。分極化は政治に限らないが、これはデジタル重視で対面しての人付き合いが薄れたことが影響していよう。他の国もそのようになるかもしれない。アメリカは人口密度の低い国でそもそも長い付き合いが珍しかったことも関係している。そしてアメリカでは不平等が広がり、所得の世代間流動性も悪化している。これでは暴動が起きる一方だ。
核の危機は解決されたどころか潜在的な危険が残っている:保有国間の対話は減り、またテロリストが利用する可能性もある。気候変動は旱魃をもたらし、農業生産性を落とし、熱帯性の病原を広げ、海面を上昇させる。化石燃料はどんどん減っているが水力や太陽光などクリーンなエネルギー源ではとてもそれを補えず、原子力に頼ることも考える必要がある。先進国の現状の一人当たり消費量を全世界の人が享受するほどこの星はエネルギー源がないのだ。
危機に実際にさらされる前にその危険を予知し回避することは可能だ。一国のリーダーはお飾りではなく強い変化を生み出すことができる。人の過去に学ぶのと同様、歴史から学ぶのは有益なのだ。

・ダイヤモンド先生が失敗談語ってくれるんだけどどう見ても自虐風自慢なんだが?在学中通してずっとトップでおまけに語学に堪能でした???ぶんなぐんぞ。
・wikipediaレベルの通史じゃなくて歴史の比較分析やってる編著みたいな手の込んだお話聞きたかったなー
・日本人が譲れないものとして天皇制が挙げられている。まさにいま男系が危機を迎えてるけど万一の際はどの点を譲るだろうか。男系は譲らず(#11)明治天皇に近い方を皇族に復帰させるという形になるのか、それとも男女平等という新しい伝統を譲らず女系にしてしまうのか、気になるところ。
・ドイツは反省したけど日本は反省してないってお話になってるけどおかしくない?反ユダヤ(主に当時のドイツ人)についてだけのような。侵略行為自体について反省したなんてことはないはずでは。あと相手が法の支配で動いてる国なら謝罪して外交的にメリットあるんだろうけどそうでないならメリットないじゃん?そして陛下がサイパンやパラオに慰霊訪問されているのに言及もないし、おまけに歴史教育で全く反省してないって?いやいや教科書でもいろんな映画小説漫画でも自虐史観叩き込まれるじゃんよー。なんかいまいち納得しかねる。頭NYTと化したダイヤモンド先生にはがっかりよ。
・日本は少子化を移民じゃなくて雇用を不要とする技術革新で解決する気がする。というか挙がってる問題解決は科学者に全て託されているような。俺は国際的取り組みとか交渉で解決に向かうとは微塵も思っていない。それが過去からみた現実的な認識ってものなのではないかなと。
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