Jared Diamond, Upheaval: Turning Points for Nations in Crisis
Upheaval: Turning Points for Nations in Crisis (English Edition)大火に遭遇したり、進路に迷ったり、結婚生活に終わりを迎えたりと人生にはいろんな危難がつきものだ。国もまたそうで、植民地をどんどん失ったり、好戦的な共産国を隣に抱えたり、やはりいろんな危機を迎える。個人の危機と国家の危機を比べることでわかりやすい分析をしようというのが本書の取り組みだ。そんなわけで主に7つの国を取り扱ったお話になり、比較分析が主であまり詳細には立ち入らないし、ほとんど統計も出てこない。定量的な話はのちの研究にお任せとのこと。
個人が危機を乗り越えるには以下のステップが必要となる。1.自分が危機に陥っていると認識する2.自分がなんとかせねばならないと理解する3.問題の境界を設定する(=全てがダメなのではないと理解する)4.他人に助けを求める5.他人を参考にする6.自我の強さを認識する7.正直に自己分析をする8.過去の危機を思い出す9.気長に待つ10.譲れるところは譲る11.譲れないことは何かを考える12.責任やら雑務などの制約をなくす
フィンランドではカレワラは皆が知っているし周辺国と違う言語体系のフィンランド語を話す国民がいる独特の国だ。この国は1917年の独立以来ずっとロシアの拡張に悩まされていた。カレリアの国境線変更と軍事基地設置の求めにフィンランドが応じなかったため冬戦争が勃発した。これは譲渡するとソ連がなし崩し的にフィンランドを支配すると恐れたためでもあり、またスターリンがただハッタリをかけていると間違えたためでもあった。その後もずっと近隣諸国のどこもフィンランドに支援を送らなかったため結局ドイツに頼らざるを得なくなり、独ソの戦争に巻き込まれる形で継続戦争が開始した。徹底的な交戦ののちに結ばれた1944年の講和条件は1941年のそれと同様厳しいものであり、ドイツ軍の撤退・カレリアの譲渡・海軍基地の租借・戦争犯罪人の処罰などを認めさせられた。しかし戦後は70年以上平和が保たれている。フィンランドは小さく誰も助けてくれず(#2)ソビエトの防衛意識に従わねばならない(#7)という現実に直視したことがこの結果に結びついたのだ。たとえフィンランド化と揶揄されようがソビエト批判はせずゴミのようなソビエト製品を輸入する(#10)ことを続け(#9)、そしてソ連の信頼を獲得することに成功した。独立は譲らず(#11)彼らは戦い抜いたことを誇り高く思っている(#6)。戦時にはマンネルヘイムという優れた将帥を持ち、戦後は面従腹背の政治家を持っていたことも忘れてはならない特長だ。文化的に統一されていて内戦で国がバラバラにならなかったことも効いている。
幕末の日本は列強の恐怖に晒されていた:阿片戦争でイギリスに負けた清が屈辱的な条件を飲まされていた。幕府はペリー来航を機に様々な不平等条約を列強と結んだものの、西洋の知識に追いつくため時間を稼ぐことに勤めた。攘夷を掲げる志士はテロを起こしたが、薩英戦争で敗北し軍事力をつける必要があると学んだ。これまでの幕府では夷狄を扱うのに十分ではないという認識から倒幕運動が起き、王政復古となった。その後の日本は政治的・社会的な改革を通じて西洋の強さを身につけ、日清戦争と日露戦争に勝利しついには列強へと変貌できた。憲法はドイツ式、海軍はイギリス式、民法の起草はフランス式、教育はアメリカ式と西洋を模倣(#5)したことはこの結果に繋がっている。黒船襲来で危機意識を持ち(#1)、列強の優れた点を認識(#7)することが必要だったのだ。経済・法・軍事・政治・技術面は洋風を取り入れた(#3,#7)が、儒教的な道徳性・天皇崇拝・神道・かな遣い等は保ち続けた。またグラバーやモッセやビッカース社など外国人の助けも得た(#4)。明治時代を通じて日本人は優れていると信じ、その国の価値を疑うことはなかった(#6)。さてその一方で天皇制は譲れないものであり(#11)、その後第二次大戦ではたくさんの自殺特攻という悲劇を生んだ。島国で切り離されていた(#12)ことも有利であったようだ。これは一部を除き西洋の分析に疎かった第二次大戦時の軍事的・政治的状態と対照的である。
チリは砂漠と山脈に囲まれていてほとんど孤立した国であり、ボリビアやペルーと戦った以外は対外的な危険を持たなかった。スペイン系の子孫がほとんどで黒人もインディアンもおらず、ラテンアメリカよりもヨーロッパに親近感を抱いている人が多い国だ。大地主が多かった歴史は近代になっても政治的な困難をもたらした。アジェンデ大統領は1970年の当選後に社会主義化を進め、企業の資産の凍結や鉱山の国営化を行った。この失政はチリ経済に大混乱をもたらし、ピノチェトによる軍事独裁を招くこととなった。ピノチェトは左派の弾圧を繰り返す一方で経済政策では自由化を進め、高度な成長を達成した。しかし軍事政権への反発はあり、1989年の国民投票でついに敗北した。ここにおいて遂に左派の政党は極端な政策をとることを諦め、現在まで民主的な選挙が続いている。民主的な政権になっても自由化政策は進められている(#3,#10)のだ。アメリカの支援を受けてアジェンデを打倒し経済を立ち直らせたこと(#4,#5)も注目に値する。チリはアメリカの顔色を伺いチリ銅山の市況に左右されるという制約を持っていた(#12)。一連の危難は極左と極右の争いがもたらした内乱であり、暴力的な政体は平和的な変化によって崩されなくては安定せず、一人のおかしな政治家により国家全体がおかしくなってしまうことを例示している。さて政治の分極化が進むアメリカはどういう道を辿るだろうか?著者は警鐘を鳴らしている。
インドネシアは東西5100キロにもわたり、人口は世界4位と多く700もの言語を抱える国だ。オランダ統治まではインドネシアという名前すら無かった。1910年代に芽生えた民族意識は宗教的にも地理的にも分断されていた。当該地を占領した日本は将来の独立を約束したが、連合国に降伏してしまったためそれは反故にされそうであった。そこで1945年8月17日に独立が宣言され、1949年まで独立戦争が続いた。スカルノは民族意識の低さを理解していたためパンカシラという原則を強調するようにした;一つの神、統一インドネシア、人道主義、民主主義、社会正義である。インドネシアの貧困を全て帝国主義のせいにしたスカルノは国家中心の経済運用を行い、アメリカのピースコープを追い出し国連も世銀もIMFも脱退した。多様すぎて議会は機能不全を起こしていたため、スカルノは「指導される民主主義」を掲げて独裁することにした。この支配は1965年の9月30日の軍事クーデターで終わり、スハルト時代の幕開けとなった。汚職にまみれているとはいえなんとか経済発展に成功することになった。政体を軍事政権に変え、経済政策を自由化し、第三世界のリーダーになるというスカルノの白昼夢は放棄した(#3)。一方で統一領土・宗教的寛容性・非共産国家は維持した(#11)。この方針はスカルノもスハルトもそれ以降も維持している。低い民族意識(#6)や貧困(#12)に足を引っ張られたが、バークレーで修行した経済学者に頼り(#5)また外交方針を西洋寄りに転換して投資や援助を呼び込むことに成功した(#4)。スハルトの自己分析は現実的であり、マレーシアに対するゲリラ運動や反植民地運動など無理はやめた(#7)。インドネシア語はもともと交易のために利用されていたわかりやすい言語であり内部のどの民族も優勢にならないよう公用語として定められたものだが、今も話され続けている。
戦後のドイツはまず連合国に分割統治され、東西に分かれた。二次大戦の責任はドイツの勃興にあると見られていたため当初は産業の振興は西側の懸念の種であったが、冷戦の進行によりソビエト共産圏からの防波堤として重要な存在と捉えられるようになり、援助を受け取るようになった。戦前への反省が見られ、ほとんどは敗訴したものの木っ端役人に至るまでナチは訴追された。1968年には大学闘争が起き、テロによる資本主義転覆の企ては失敗したものの、権威主義的だったそれまでの政治的環境は変化した。ブラントは外交方針を一変させ、東独と向き合い東欧諸国との関係も改善した。シュミットとコールもこの路線を維持し、東西の交流は活発になりやがて東西ドイツは再統一された。ドイツは非常に多くの国と陸でも海でも接しており(#12)、諸外国の様子を伺う必要があった。第一次大戦後は被害者意識(#2の失敗)から扇動者が生まれたが、第二次大戦後は真摯な反省が見られる。ビスマルクは正しく分析し、ウィルヘルムとヒトラーは誇大妄想に陥り、アデナウアーやブラントはまた現実路線に戻った(#7)。国境変更とナチの過去を乗り越え権威主義的体制を捨て女性の地位は向上したが(#3)、芸術を保護し保険制度を維持し共同体の価値を信じるという文化は維持した(#11)。マーシャルプランを受け(#4)経済的奇跡を達成した。これらの変化は全て緩やかだった(#9)。
オーストラリアへのイギリス植民は1788年に始まった。アボリジニは狩猟採集民のため集住するということはなく土地を持たなかったため、植民にあたり交渉はされなかった。アメリカとは対照的にオーストラリアは平和的な経過で自治が認められた:アメリカの経験を踏まえたことと、あまりにも遠かったことと、統治に軍が必要ないため過酷な税を課す必要もなく反抗が起きなかったためだ。第二次大戦まではイギリスに対する同化意識が高く、例えばガリポリでイギリスのために戦った日が祝祭日になっている。しかし日本の侵略に対しオーストラリアの防衛を誓ったイギリスはシンガポールから撤退した。戦後はさらに英豪の足並みは揃わなくなった;イギリスはEECに参加してオーストラリア製品に対して関税をかける道を選び、オーストラリアの最大の貿易相手国は日本となった。そして白豪主義は時代にそぐわないものとして放棄されることとなった。オーストラリアは常に自分が何者なのかを問い続けている(#6);イギリスでもありアジアでもある。アジアの周縁にあるという自己分析が必要だった(#7)。イギリス従属外交の放棄・多民族国家の形成・政治的かつ経済的なアジア重視などの点では変化したが(#3)、議会制民主主義・象徴としてのイギリス国王・ユニオンジャックを含んだ国旗・スポーツ狂いなどの文化は維持した。海に囲まれているため日本の侵略までは外圧が加わらなかった(#12)。
現在の日本政府は債務超過を抱えており、世代間の負担格差が問題となっている。女性の地位は低く労働市場に参加せず、また移民には非常に消極的で、少子化が進んでいる。戦争への謝罪は不十分で中韓の不信は未だに残っている。資源の輸入に頼りきっている国であるにもかかわらずその計画的な利用には反対している。
現在のアメリカは一人当たりGDPが極めて高く、資源は豊かで農業生産性も高く、地理的にも侵略される恐れはなく、優秀な人材の宝庫となっている。しかしここ15年というもの政治の分極化が進んでしまった;選挙資金を大量に拠出するロビー団体は極端な政治家を支持しがちだし、地元の顔を伺うため頻繁に帰らざるを得なくなり政治家同士での繋がりは薄れ、改変でどちらかの政党に偏った選挙区ではより極端な政策が支持されるのだ。分極化は政治に限らないが、これはデジタル重視で対面しての人付き合いが薄れたことが影響していよう。他の国もそのようになるかもしれない。アメリカは人口密度の低い国でそもそも長い付き合いが珍しかったことも関係している。そしてアメリカでは不平等が広がり、所得の世代間流動性も悪化している。これでは暴動が起きる一方だ。
核の危機は解決されたどころか潜在的な危険が残っている:保有国間の対話は減り、またテロリストが利用する可能性もある。気候変動は旱魃をもたらし、農業生産性を落とし、熱帯性の病原を広げ、海面を上昇させる。化石燃料はどんどん減っているが水力や太陽光などクリーンなエネルギー源ではとてもそれを補えず、原子力に頼ることも考える必要がある。先進国の現状の一人当たり消費量を全世界の人が享受するほどこの星はエネルギー源がないのだ。
危機に実際にさらされる前にその危険を予知し回避することは可能だ。一国のリーダーはお飾りではなく強い変化を生み出すことができる。人の過去に学ぶのと同様、歴史から学ぶのは有益なのだ。
・ダイヤモンド先生が失敗談語ってくれるんだけどどう見ても自虐風自慢なんだが?在学中通してずっとトップでおまけに語学に堪能でした???ぶんなぐんぞ。
・wikipediaレベルの通史じゃなくて歴史の比較分析やってる編著みたいな手の込んだお話聞きたかったなー
・日本人が譲れないものとして天皇制が挙げられている。まさにいま男系が危機を迎えてるけど万一の際はどの点を譲るだろうか。男系は譲らず(#11)明治天皇に近い方を皇族に復帰させるという形になるのか、それとも男女平等という新しい伝統を譲らず女系にしてしまうのか、気になるところ。
・ドイツは反省したけど日本は反省してないってお話になってるけどおかしくない?反ユダヤ(主に当時のドイツ人)についてだけのような。侵略行為自体について反省したなんてことはないはずでは。あと相手が法の支配で動いてる国なら謝罪して外交的にメリットあるんだろうけどそうでないならメリットないじゃん?そして陛下がサイパンやパラオに慰霊訪問されているのに言及もないし、おまけに歴史教育で全く反省してないって?いやいや教科書でもいろんな映画小説漫画でも自虐史観叩き込まれるじゃんよー。なんかいまいち納得しかねる。頭NYTと化したダイヤモンド先生にはがっかりよ。
・日本は少子化を移民じゃなくて雇用を不要とする技術革新で解決する気がする。というか挙がってる問題解決は科学者に全て託されているような。俺は国際的取り組みとか交渉で解決に向かうとは微塵も思っていない。それが過去からみた現実的な認識ってものなのではないかなと。
posted by Char-Freadman at 21:11| 北京 |
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